| 会場:中之島香雪美術館 | 会期:1/3(土)~3/29(日) |

ヨーロッパを三度旅して名画を手に入れ
日本初の西洋美術館の基礎を築いた一人の画家の物語
1930年に我が国初の西洋美術館として誕生し、まもなく創立100年を迎える大原美術館(岡山県倉敷市)。長い歳月の間に、収蔵品は多岐に拡充され、今や国内屈指の美術館として広く親しまれている。
しかし、その始まりは100点に満たない西洋の絵画と彫刻である。いずれも洋画家・児島虎次郎が単身でヨーロッパに渡り、現地で買い付けたもので、購入にあたっては、倉敷紡績株式会社二代目社長・大原孫三郎の資金的援助があった。「日本の人々に本物を見せたい」という若い二人の思いが、やがて大原美術館の設立につながっていく。ただし、児島虎次郎は「夢」の実現を目にしないまま、1929年にこの世を去った。
この展覧会は、2025年春に児島虎次郎記念館が開館し、児島への関心が一層高まる中、創立100年を目前にした大原美術館の改修工事にともなう休館により、「これぞ名品!」というにふさわしい作品を館外で展示することが可能となった貴重な機会。児島虎次郎の足取りを辿りながら、さまざまな名画を尋ね歩く旅にも似たひとときをゆっくり楽しんでみてはいかがだろうか。

児島虎次郎《和服を着たベルギーの少女》 1911年 大原美術館所蔵
児島虎次郎 (1881-1929)について
岡山県出身の洋画家。1881年、岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町)に生まれた彼は、少年の頃から画才を発揮し、画家になるべく上京して東京美術学校西洋画科選科に入学。倉敷市の篤志家である大原家の奨学金を得ながら、黒田清輝の指導の下で勉学に励んだ。同校の研究科時代には岡山孤児院を主題にした油絵《なさけの庭》が宮内省買上げになるなど、将来を嘱望される洋画家として高く評価されていた。卒業後も引き続き大原孫三郎の援助を受け、本場フランスで研鑽を積んだ。
1908年から1912年、1919年から1921年、1922年から1923年と、三度の渡欧を繰り返した虎次郎は優れた西洋美術を日本に持ち帰ることを夢見て、孫三郎の資金提供によってヨーロッパの名画を次々と購入。大原美術館の基礎を築くことになった。
展示構成
第1章 最初の渡欧
1908年3月11日、マルセイユ港に降り立った虎次郎は、4日ほど町を見て回った後、今度は鉄道でパリへと向かう。しかし着いて早々、長旅の疲れからか、下痢と発熱に苦しみ、昏睡状態におちいった。
病後は、療養と静かな生活を求め、パリ市近郊のグレ=シュル=ロワンに滞在。「ホテルの裏に一寸したる清き河あり、船を浮べて水流を上る。古びたる橋のかかれるは面白し。この地に滞在するは二週間ほどの予定なれども、宿は至極物静かにして閑雅なり。(中略)できるだけ長く泊まりたし。(中略)こんな所で描けば絵は幾枚でも出来ると思う」。
恩師の黒田清輝が滞在し、佳作を描いた村だからか、あるいはその鄙びた風景が岡山の故郷を思わせたからか、グレ=シュル=ロワンを拠点に虎次郎は本格的に制作を開始するが、結局は静けさよりも不便が勝り、一年後にはパリに戻った。しかしパリに戻ったら戻ったで、絵を描くどころではない。「毎日何人かの来訪ありて仕事出来ず、ただぶらぶら遊ぶくらいのもの。遊ぶにも金がかかる。面白くない。少し勉強したいと思うが浮腰では駄目である。早く旅行してうんとやろう。それより他によい考えはない」。こうして虎次郎は、ベルギー、ドイツ、オランダを旅した。中でもベルギー西部のゲントを非常に気に入って、王立美術学校に入学することになる。
王立美術学校では、校長ジャン・デルヴァンから数多くの有益な指導を得て、ベルギー印象派のエミール・クラウスやパリ画壇における重鎮エドモン=フランソワ・アマン=ジャンを紹介される。また、デルヴァンからは「君達は古い美術の歴史を有った国に生まれて、其内に育ったのだから、(中略)君達には君達の固有の特徴がある。然るに無暗に我々西洋人の真似ばかりをすると、其固有の特長を失ってしまうことがないとは限らぬ、大に用心すべきことである」と指導を受け、またクラウスからも同様に「従らに欧洲に遊び、欧洲の画風を模してはならぬ。固有なるものが発揮されぬ作物は真ではないと思う。固有とはその人本然の意である」という助言を得た。虎次郎は彼らの諫言をいわば座右の銘として、しっかりと心の中に掲げていたようだ。
この章では、虎次郎が最初の渡欧でデルヴァンを通じて知り合ったベルギーの画家たちの作品を中心に展示される。

児島虎次郎《グレ村の風景》 1908年頃 高梁市成羽美術館所蔵
第2章 帰国
ゲントの美術学校を首席で卒業し、1912年10月、約5年の第1回渡欧から帰国した虎次郎は、慈善事業家で岡山孤児院長・石井十次の長女・友と結婚し、孫三郎の好意で酒津の大原別邸に新居を構え、画室「無為村荘」を建設する。しかし、孫三郎は当時「少しも進境がない」と語っていた。
洋画家としての虎次郎にとって、フランスの自然主義と印象主義は、自らの表現の重要な下地となっていた。その下地の上に、 例えばファン・ゴッホのように、筆を使わず、パレットの上で絵具を混ぜることもなく、チューブから直接絵具をキャンバスに塗り、外光を表現しようとしたが、いかにして西洋の模倣から抜け出すかに苦闘していたようだ。虎次郎はいま一度自らの根底にある東洋精神の血統を見つめなおすべく、1918年3月末から3ヵ月間、中国と朝鮮へと出発。さらに日本画も試みたが、やはりこれはうまく行かず、結局は1918年末に、孫三郎の期待に応えられない制作上の苦境を打開するため、2度目の渡欧を決心した。
この章では、最初の渡欧から帰国した後、第2回渡欧(1919-1921)までの虎次郎の作品が展覧される。

児島虎次郎《スペインの丘》 1920年 大原美術館所蔵
第3章 「絵を買ってよし」ーフランス
1919年5月6日、虎次郎は再び神戸港からいまだ第一次世界大戦(1914-1918)の余燼が残るヨーロッパに向けて出航。まずロンドンで下船し、その後、鉄道でパリに向かった。この渡欧では、サロン・ドートンヌ出品作《朝鮮の少女》がフランス国家の買上げとなり、日本人初の正会員に推薦されるなど、苦境を脱した虎次郎の誰の目にも明らかな前進が認められる。その一方で、同等に大きな責務として、「日本の若い画徒のために」と、虎次郎が孫三郎に懇願した名画の購入があった。「絵を買ってよし。金送る」という孫三郎からの電報をようやく受け取ったのが、1920年8月。そして10月以降、1921年1月1日にマルセイユ港から日本へ帰る船に乗るまでの2ヶ月間に、虎次郎は連日のようにモネ、マティスらを訪ね、作品購入をめぐる直接の交渉を繰り返した。
1921年2月11日、神戸港に帰って来た虎次郎は、休む間もなく自ら選定し買い付けた作品を公開する準備に追われる。そして早くも3月28日からは、倉敷市内の小学校において「泰西名画展」が開催された。開催費用の計算など全く念頭にない虎次郎のこだわりが、春休みの教室を見事な絵画展示室に変貌させたようだ。反響は予想をはるかに上回るもので、孫三郎に西洋美術を購入する意義を強く確信させ、さらに買い足すべく虎次郎に三度目の渡欧(1922-1923)を促すこととなった。
この章では、虎次郎が買い付けた作品をはじめ、大原美術館所蔵の印象派以前の画家たちの作品を中心に展示される。

ポール・ゴーギャン《かぐわしき大地》 1892年 大原美術館所蔵
第4章 スペイン、イタリア、スイス
虎次郎が買い付けた作品の中でも、エル・グレコの《受胎告知》はまちがいなく出色の一点だろう。この作品を入手したのは、 「大々的大蒐集決行」のために渡欧した三度目の滞在の際だが、すでに前回の滞在中(1919-1921)に、1919年12月15日から 44日間を費やし、虎次郎はスペインを旅している。プラド美術館でエル・グレコの大作を目にし、夜はフラメンコやアルトゥール・ルービンシュタインのピアノ独奏――「傑出した演奏であった」――を聴いて五感を鋭くした虎次郎は、「グレコの各作品はすべて霊妙である」と日記に記した。ここから、エル・グレコが虎次郎にとって敬愛すべき画家となっていたことが推察される。《受胎告知》の購入にあたっては、再三見分し、アマン=ジャンからは「買うべき優品」との助言を得た。
三度目の渡欧は、1922年5月から1923年5月までの1年間。「今回もまた大原様の特別なる加護を受けたることを感謝すればするほどに、今回の旅行は非常なる責任と義務を要すべきことにて、とても一通りの力にては勤まり申さずと存じ居り候」。孫三郎の信頼と期待に応えようとして、虎次郎は名画購入のために大いに勉強し、審美眼を磨き、かなりの距離を歩いている。孫三郎から「買物打ち切れ」と電報が来るまで、虎次郎は精力的にフランス、ベルギー、スウェー デン、ドイツ、スイスなどを訪れ、名画の蒐集に奔走した。
ここでは、虎次郎が買い付けた作品に加え、戦後に大原美術館の所蔵となったスペイン、イタリア、スイスの画家の作品も併せて展示される。特にスペイン人として生まれたピカソは、エル・グレコの近代性を再評価する気運の中、エル・グレコを手本にしたような作品を数多く手がけた。

エル・グレコ(ドメニコス・テオトコプーロス)《受胎告知》 1590年頃-1603年 大原美術館所蔵
第5章 エジプト
1922年5月8日、虎次郎の三度目のヨーロッパへの旅が始まった。もちろん、いつものように神戸港から出航したが、今回は行きと帰りの途中で都合二度、念願のエジプト滞在を果たしている。首都カイロや古都フスタートを訪れ、馬の背に乗って砂漠を散策。夢にまで見たピラミッドの前にも立ち、また古代エジプトの小さな神像や陶器の破片なども手に入れた。
二度目の欧州滞在(1919-1921)では、ルーヴル美術館で古代エジプトの壁画の一部を模写したことが日記に記録されている。虎次郎は何を考えながら模写をしたのだろうか。また、エジプトとは彼にとってどのような場所だったのだろうか。
「度々企てあるこの旅のいよいよ可能となれる事は、すでに観ぬ間に何物かを得たらん心地す。ああ五千年の夢の跡、人は生れ、人は逝きて末に流れ降りて栄し文華の跡、幾年年を夢と眠りしこの過去の崇高なる大芸術の力に今は吾れ接するの時に至り、感慨無量にして長嘆を催す」。大文明の永遠と人生の無常。諸文明の源流を目の前にした「長嘆」の向こう側に、どこまでが西洋で、どこからが東洋なのか、そして人とは何かと問う虎次郎の思念が、渦のように経廻る様が想像される。
この章では、特別出品の高梁市成羽美術館所蔵「児島虎次郎 エジプトコレクション」のいくつかの遺物とともに、古代エジプトからインスピレーションを得た虎次郎の素描作品も展示される。
第6章 フランス、ふたたび
1923年5月1日、三度目の渡欧から帰国した虎次郎は、すぐさま倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)の開院準備に携わっている。6月2日に開業を控えていたこの病院は、病院独特の冷ややかさを減じるべく様々な工夫が凝らされたが、帰国後まもない虎次郎がその任に当たった。病室をはじめ、院内の随所にパリで買い求めた名画の複製画を掲げ、ガラス天井の温室のような待合空間の中央には、虎次郎がデザインした欧風の噴水も造られた。
さらに同年8月には、新たな収集を披露するための「第3回泰西名画家作品展覧会」(倉敷小学校旭町校舎)と「埃及・波斯及び土耳古 [エジプト・ペルシャ及びトルコ] 古陶器展覧会」(倉敷小学校新川校舎)の開催準備にも従事した。
その後、1928年にも、同様の展覧会が京都と東京で「泰西美術展覧会」として開催された。このときは、鑑賞者の理解に資するものとして画家の略伝をまとめた図録が制作されている。展覧会終了後、フランス絵画を精力的に紹介した功績により、虎次郎に対しフランス政府から勲章が授与された。
1928年11月、虎次郎は、明治神宮絵画館壁画《対露宣戦御前会議》の制作にあたり極度に疲弊し、京都帝国大学医学部附属病院に入院する。翌年1月、どんよりと底冷えする京都より、晴れの多い暖かな岡山のほうが療養には良いと考え、岡山医科大学附属病院に転院するが、その甲斐なく、1929年3月、虎次郎は永眠。享年47歳であった。
翌1930年、世界恐慌の真っ只中にもかかわらず、孫三郎は虎次郎の業績を記念して、自邸の庭に大原美術館の建設を決断する。孫三郎にとって美術館の建設は、大原社会問題研究所(1919)、倉敷労働科学研究所(1921)、倉紡中央病院(1923)などと同様に、社会的幸福を実現するための重要な施設だったと考えられる。だからこそ、孫三郎は、石井十次の岡山孤児院に運営資金を拠出したのと同じく、虎次郎には名画の購入資金を惜しみなく与えたのだろう。

アメデオ・モディリアーニ《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》 1919年 大原美術館所蔵
まもなく創立100周年を迎える大原美術館。虎次郎が現地に赴き買い付けてきた名画群は、日本でいつでも見ることのできる本物中の本物として、昔も今も芸術に触れる喜びを実感させてくれる。
美術館とは、一体何なのか。何のためにあるのか。大原美術館の創設に結実した虎次郎と孫三郎の思いは、いま一度、美術館の原点に立ち返るよう我々に促しているのかもしれない。
最後の括りとなるこの章では、大原美術館の精華というべき印象派の画家たちの作品を中心に展示される。

クロード・モネ《睡蓮》 1906年頃 大原美術館所蔵
[information]
特別展「大原美術館所蔵 名画への旅 ― 虎次郎の夢」
・会期 1月3日(土)~3月29日(日)
・会場 中之島香雪美術館
・住所 大阪市北区中之島3-2-4 中之島フェスティバルタワー・ウエスト4階
・時間 10:00〜17:00(入館は16:30まで)
※夜間特別開館/毎週金曜日10:00〜19:30(入館は19:00まで)
・休館日 月曜日(祝・休日の場合は開館し翌火曜日休館)
※3月14日(土)~3月29日(日)はこども無料DAY/小学生から高校生までは入館無料(学生証の提示が必要、保護者は有料)
・入館料 一般1,600円、高大生800円、小中生400円
・TEL 06-6210-3766
・URL https://www.kosetsu-museum.or.jp/nakanoshima/