
文・写真=勅使河原 純
忠犬ハチ公物語
オスの秋田犬ハチは、大正12年11月10日に秋田県大舘近郊の農家、斎藤義一家で生まれた。今ごろになっても、こうして一匹のワンちゃんの出生地や飼い主がしかと確かめられるのは、驚異といっていいのかもしれない。実のところハチは、並外れた賢さとおっとりとした秋田犬らしい優しさで、日本でもっとも有名になった犬の一頭である。誕生を記念して銅像が建てられたのも、一度や二度ではない。そうしたことを勘案し、通常は「忠犬ハチ公」といささか敬愛をこめた云い方をされているのである。

ハチを大舘から関東大震災直後の東京へと呼び寄せたのは、上野英三郎という東京帝国大学の先生であった。先生の専門分野がたまたま農学であったため、恐らく秋田県の農業関係者にも、数多くの知り合いがいたのだろう。ハチはビスケットつきの米俵に詰めこまれ、急行列車に揺られながら、何とか東京まで無事に辿り着くことが出来たのだった。
上野先生は東京の渋谷駅近くに住んでいた。後に東急百貨店本店Bunkamuraが建てられた辺りで、広大な庭つきの屋敷に八重夫人をはじめ、大勢の家族や書生さん、お手伝いさんたちが仲良く暮らしていた。庭木の手入れは、もっぱら植木職人・菊さんの仕事である。犬の名前の由来は、八の字のようにピンとした太い前足からきているらしいが、他にハチが上野家の八番目の犬だったことにも拠るという。
先生の勤務地は駒場の東大農学部、本郷の農学部、北区の農事試験場、そして大震災後の混乱をきわめた各地の役所や農場などである。このうち駒場には20分ほど歩いて通うが、ほかの場所へはすべて渋谷駅から電車に乗って行った。こうしたとき、決まって朝の見送りと夕方のお出迎えをするのが、書生さんとハチの役目である。やがて慣れてくると、ハチは独りでそれをこなすようになった。別れや出会いの度に、先生からビスケットをもらって喜ぶハチの姿が、いつしか駅員や街の人たちにもしっかりと覚えられるようになっていった。

だが大正14年5月21日、上野先生は駒場での授業の最中に突然脳卒中で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。大正時代とはいえ、53歳にも満たない若さである。お通夜、告別式と葬儀は型通りに進行していく。だがハチはそんなことには一切お構いなく、黙々と日々のお勤めをやり遂げつづけていた。ある日上野家は渋谷から退去することになり、ハチも日本橋の呉服屋さん、浅草の理髪店用椅子工房、世田谷の八重夫人のところへと順に預けられ、最終的には渋谷の植木職人・菊さんの一家に引きとられることとなった。こうして思いがけず、ハチの渋谷駅通いがふたたび開始されたのである。

ハチの新たな日課が5年を過ぎたころ、この特異な行動に目をとめる人が現れた。日本犬保存会の斎藤弘吉会長である。彼はハチを雑誌で紹介し、それがもとで全国紙にも記事が載るようになる。そんな一つに目をとめたのが、彫刻家の安藤照であった。安藤は早速斎藤弘吉に、ハチの像をつくりたいと申し出る。こうして昭和9年に誕生したのが渋谷駅の「忠犬ハチ公」像であった。愛苦しい表情がしっかりと捉えられ、喧嘩で垂れてしまった左耳もかえって親しみを感じさせる。八の字の堂々たる前足は、絶えず見物人に触られて光り輝やく。像の除幕式には、ハチ自身も参列したという。ハチが死んだのはその翌年であった。一方、本郷の東大農学部の方には上野先生も登場している。一ノ瀬正樹教授の発案で平成27年に完成した「上野英三郎博士とハチ公」像だ。再会の喜びのあまり、思わず先生に飛びついていく無邪気なハチを表したものである。

勅使河原 純
美術評論家。1948年岐阜県出身。世田谷美術館で学芸業務のかたわら、美術評論活動をスタート。2009年4月、JR三鷹駅前に美術評論事務所「JT-ART-OFFICE」を設立、独立する。執筆・講演を通じ「美術の面白さをひろく伝え、アートライフの充実をめざす」活動を展開中。