文=中野 中
(52)老いの心によぎる思いは…
前々回の〈年寄りの繰り言はもうたくさん!?〉(6月公開)で、初体験の入院生活でのとまどいや千々に乱れる思いを、つい吐露したために何人もの知人からお見舞い電話をいただいた。心配をかけたことを詫びながら、この連載を読んでくれていることが嬉しかった。
その電話で、前々々回(古々々米のようだ)の〈梅一輪 -早く来い来い春よこい!〉の評判が(社交辞令でさえあれ)良かったので、今回は再び“歳時記”に頼りながら〈冬・新年の句・歌〉をネタに綴ってみたい。

ことしの立冬は11月7日であった。“徘徊日誌”にはこうある。
──このノートは1週間ぶり。体調が良いと日誌が遠のくかも知れぬ。朝6時半ごろ野川へ出てラジオ体操で体をほぐす。川の上にのぼった旭日を浴び、西の空低くに浮かんでいる満月を眺め、眺められながら。洗濯機をまわし、コーヒーを飲んで、出かけよう。きょう、立冬。(以下、略)──
中国古代の歴史書である『史記』の中で、1年を 24の節気に分けている。立冬はその一つで、暦的にはこの日から冬に入り、立春(来年は2月3日)の前日、つまり節分までを冬とする。

冬来るつめたき猫のあしのうら 富安風生
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足の裏が実際に冷めたいのか知らないが、愛猫家には風生の感覚はよく解るのだろう。
それにしても筆者の業界では、猫はよくモティフとなって個展や猫だけのグループ展がしばしば開かれている。犬だってモデルになるに充分な資格はあると思うのだが、愛犬家に絵描きが少ないのか、犬が絵を嫌うのか。
ボイラーの焚口がこぼす炎(ひ)の色も 親しくなりぬ立冬けふは 川奥由松
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この炎はもちろん薪(木材)である。
初冬の立冬から仲冬の大雪があり、クリスマスの灯とジングルベルや人々の喧騒がクライマックスを迎えるイヴ近くに冬至が来る。
この日、太陽は北半球から最も遠い南にかたより、太陽の高さは1年中でいちばん低い日になる。故に、昼は最短、夜は最長となる。東京での夜の長さは14時間15分に達するという。
冬至は古来、「陰極の至り」であるが故に、「陽気初めて至る」ともいわれ、古代から朝廷の年中行事も行われてきた。庶民の我が家でも、冬至粥や冬至南瓜を食べ、柚子湯に入る習慣は続いている。

粥食ふも物知りらしき冬至かな 一茶
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冬至が過ぎれば年の暮れである。
古くから、年末には上下の別なく互いに行き来して礼物(いわゆる「お歳暮」)などを贈る習わしがあったようだ。また煤払い・餅搗きなどの諸行事があって、まことに慌ただしい。

年暮れぬ笠着て草鞋はきながら 芭蕉
いさゝかの金欲しがりぬ年の暮 村上鬼城
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笠着て草鞋……は、極寒の雪の夜道を行く芭蕉の姿が目に浮かぶ。また、欲しがる金を“いささか”と無心するあたりは鬼城らしい。
いささか辛気くさくなってきた。
気分を変えて、少々長くて恐縮だが、井伏鱒二『歳末閑居』の一節を。どこかとぼけた味わいがあり、わびしくもあり、ユーモラスでもある。
──ながい梯子を廂にかけ/拙者はのろのろと屋根にのぼる/冷たいが棟瓦にまたがると/こりや甚だ眺めがよい//ところで今日は暮れの三十日/ままよ大胆いつぷくしてゐると/平野屋は霜どけの路を来て/今日も留守だねと帰つて行く──
どうやら今日も居留守を構え、掛取りやから逃れたようだ。

「年末」や「年の暮」と同義の言葉に「行く年」がある。大晦日には蕎麦を食べながら、たいがいNHKテレビの「ゆく年くる年」を見ることにしている。いよいよ“今日から明日へ”の零時が近づくと、あちこちで除夜の鐘がなりだす。テレビがそれをいくつも拾って放映し、それが正月初詣に変ってゆく。
暮れは暮れで、正月は正月で、何となく忙しいような暢気なような、尻の落ち着かない気分の日が続くが、7日頃には小寒に見舞われ、この日から大寒を経て節分までが、“寒の内”である。
やがて日脚が徐々に伸び、春近しを思わせながら三寒四温にとまどい、そのうちに梅がほころび、春が本格化する。
が、近年の日本には四季が失われ、ことしのように二季の夏・冬だけで、春・秋の存在は薄くなっていくばかりだ。

年暮るゝ老の心によぎるもの 高浜年尾
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高浜年尾は虚子の子であることは知っていたが、その句はほとんど知らない。しかし、上掲の句は我が老の心に刺してきた。
既に連載の中で触れたと思うが、古刹での正月詣りのお御籤で“大凶”を引き当てたことにすべてが始まっていたようだ。
4月の緊急入院から、入・退院が繰り返され、定期的な通院による治療・投薬が今に続いている。このすべてが初体験でとまどうばかり。体内のどこかが不具合になれば、他の器官にかかわり、他に波及して、次々と対応が求められ、治療を余儀なくされる。
半年余のわずかな体験から思うのは、危機や厳しい状況を乗り越えて小康を得ているときが、生と死を思い、未知だが長くはないであろう日々の生き方、死への不安……に苛まれる。
神が与えてくれた生と死を思う日々を、無駄にすることなく生きて死ぬことに努めなくてはならないのだ。
かといって、それほど深刻なわけではない。日々に感謝して精いっぱい楽しんでいるのだから。多くの人々に支えられ、励まされて、ひょっとしたら、こんなに充実して幸せな日々は我が人生で初めてではなかろうか。
※本稿は『大歳時記』集英社版〈句歌 秋冬新年〉に多くを借りた。