
二人は「報道写真家」だった
木村伊兵衛と土門拳 その2
木村伊兵衛と土門拳は、白と黒とでもいうように、何もかも違う。常に対極のものとしてお互いを意識しあった。と前回は簡単ながら紹介した。木村より十近く若い土門には、写真界のみならず広く世間から注目を浴びる木村への憧れもあっただろうし、二人の違いをはっきりと世間に示さねばならないとする距離の置き方もあったことだろう。
写真に夢中になり始めた若いころは、僕は両者を全く違う、一切の接点がない表現者として考えていた。しかし、だからといって両者は、互いを無視してバラバラな方向へと突っ走ったわけではない。ある時、二人とも自身のことを「報道写真家」ととらえている、と突如気づいた。「報道写真」。これが二人の唯一にして揺らぐことのない接点であり、二人のことをきちんと理解するための大事な鍵だった。両者はどんなに離れていようとも、「報道写真」という同じ土俵の上にいたのだ。
「報道写真」には、二人が大事に守った二つの意味があると思う。
一つは、「報道写真」の役割そのものに関わる。これはつまり、「撮る」だけで収まらず、「伝える」ことを二人は重視している、ということだ。「報道」と名がつけば、撮影から発表までの迅速さが何にもまして求められる。撮影後、できるだけ早く世に作品を問おうとする二人の姿勢には、雑誌というタイムラグの少ない発表の場がぴったりだった。土門は、さらにテーマごとに写真集も発行した。
「報道」が持つ二つ目の要素は、どんな時にも「公的な視線を保持する」ことである。その時代時代を背景にしながら、公正に読み切っていくという敏感なバランスが、創作の大黒柱としてドシンと据えられておかねばならない。加えて「そのテーマをさらに深く、長く追い続ける姿勢・粘り強さ」もジャーナリストに重視される資質の一つだ。その先で、客観的報道と言いながらもどうしても自分というものが溶け込んでいく。「公」に重点を置きながらも、「私」の介入を許していく。同じ傾向が木村にも土門にも見て取れる。そこにそれぞれの味があり、ニュース報道、情報とどんな違いを示すのか、その難しさもあった。補う意味ではなかったが、土門は溢れる思いを文字にも託した。彼は優れた文筆家でもある。
終戦から5年。1950年に日本写真家協会が設立され木村伊兵衛は初代会長に選ばれる。この頃の木村は、雑誌からの撮影に応えながら女優のポートレート撮影が増えてきて、木村=女優写真家という印象が固まり始めたことに、戸惑いを隠せなかった。写真界の頂点であぐらをかいているとする、木村の立ち位置についての批判もはじまっていた。突然木村は、秋田への取材を開始する。各地の農村では、急速な復興と近代化の中で、古くからの伝統や風習が急速に失われはじめているという。今、撮り逃すと、農村の原風景たるものは永遠に撮れなくなってしまう。木村はまずいと直感したという。「秋田」は、木村にとって初めて独自に打ち立てた「テーマ」であり、長い時間をかけてじっくり取り組む「報道写真家・木村伊兵衛」をはっきりと世に問おうとするプロジェクトだった。
そこで数年越しの取材を敢行し生まれたのが、「秋田おばこ」(大曲 秋田 1953年)、「田植女」(アワラの田植 富山県 1955年)などの傑作であった。「秋田おばこ」は今では見ることのなくなった紬と山笠の田植え衣装をまとった美しい女性の姿であり、今では木村伊兵衛作品の代名詞として知られる。「田植女」は、湿地そのもののような土地で膝までぬかるみ、全身泥まみれになりながら田植えをする女性の姿であった。こちらの方が問題意識を明快に世間に投げかけている。原風景をとどめることに成功した秋田の成果は、写真専門誌や週刊誌のほかに「木村伊兵衛傑作写真集」(1954年)で発表された。さらに「秋田」の評価が高まったのは木村の没後、1970年代以降のことになる。失われる風景をとどめようとした木村伊兵衛にやっと世間は追いつき、再評価をはじめたということになる。
「絶対非演出のリアリズム」を強く提唱し、全国のアマチュア写真家たちを牽引・鼓舞した土門拳は、「絶対非演出」というカセを自分にもはめたことで、はっきり報道寄りだったと言える。1950年代のほとんどの年月、雑誌「カメラ」を舞台に写真評を盛んに行った。土門の写真講座は大好評で、戦後放置されたままの痛ましい東京の姿が多く寄せられ、生々しい姿を記録していったが、一方では、復興の時代にあって暗い部分ばかりに目をやる傾向がどうしても強く、いったん飽きられ始めると歯止めが効かなかった。「くそリアリズム」と揶揄されることが多くなっていく。土門は、この時期、写真はどうあるべきか自問自答を繰り返し、行き詰まりを感じていた。「土門天皇」とまで呼ばれた写真界における自分の影響力が、急速に失われていく。それを目の当たりにするのはさぞ辛いことだったろう。
土門は停滞しつつも何かを探し出そうとしていた。「具体的なテーマ」。それを見つけ出し、雑誌など発表の場所を確保し、取材に出かける。そして印刷物として世に問いかける。テーマ重視の姿勢は木村も土門も驚くほど共通している。
二人だけではなく、50年代から60年代にかけて活躍した写真家たちにとって、戦争の傷跡や新たな紛争は見逃せるものではなく、そこを切り口に「テーマ」を見つけることは当たり前の習慣になっていた。事件や戦乱をただ撮影するのではなく、そこにどんなドラマが潜んでいるのか、世界はどう動こうとしているのか、撮影を通じて見抜いていく。戦後のロバート・キャパやマグナムの写真家たちが重視した姿勢だ。
海外の華々しい写真家たちに盲目的に憧れるのではなく、土門は、自問自答する中から「写真とは何か、自分にとって写真はどういう意味を持つのか」を探りながら、一つの大きな答えに近づきつつあった。

「写真家はなにを見たか・1945〜1960」
1991年8月22日から9月10日まで新宿・コニカプラザで行われた写真展の図録
この時代の日本人写真家たちの作品、考えなどが、簡潔にまとめられている
土門が低迷から脱するきっかけとなったのは、1957年から始めた広島の被爆者取材だった。苦しみ続ける被爆者のことを戦後しばらく思い至ることさえなかった、という事実は、土門にとって痛恨のミスとも言えた。急ぎ広島へ向かった土門だった。被爆者たちは、土門のカメラの前で弱々しい笑顔を向けたわずか数日後にはこの世の人ではなくなっていく。その一方で、戦後生まれの子供達が原爆ドームの周辺で川遊びをする姿さえ見られ、土門は整理しきれない現実の複雑さというものに敬意を払うようになっていく。被爆者取材の成果は「ヒロシマ」シリーズとして、取材のたびごとに雑誌に発表され反響を巻き起こしたが、すべてが好意的なものでもなかった。むしろ執拗な凝視としか言いようのない土門の被写体への姿勢や、長々と続く手術シーンには、伝え方が偏り過ぎているなどの批判が多かった。このことへの読者からの声に、土門は丁寧に答えるかたちで、「写真は見るものではなく、見せるものだ」と答えている(1958年)。ただ漫然と見られるのではなく、関心を持たない、土門を知らない読者にも、その写真を突きつけ、反響を生み出すことで、写真の本当の使命が果たされる、という文面である。
「ヒロシマ」(1958年)、続く、「筑豊のこどもたち」(原題ママ)(1960年)は、写真集というかたちで世に送り出された。土門は、速報性には優れているものの週刊誌だけでは伝えきれない、あるいは週刊誌であるが故に内容が過剰になってしまうという欠点があると考えたのだろう。複雑なテーマを、時間がかかってもじっくり伝えていくことにかけては、写真集というかたちは土門にとって一つの理想でもあった。
土門は、脳出血を発症。リハビリに苦しみながら手にしたのは、それまで馴染みのない大型カメラだった。(続く)
高橋 周平
1958年広島県尾道市出身。1980年代中盤より、写真・美術を中心に評論。主な著作に「写真の新しい読み方」「彼女と生きる写真」、ザ・ビートルズ訳詩集「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」など。
企画・編集写真集に「キス・ピクチャーズ」「イジス」ほか、エリオット・アーウィット写真集数冊、など約30タイトル。
展覧会としては「ハーブ・リッツ・ピクチャーズ」展など多くをディレクション。
1996年からスタンフォード大学研究員、1998年より多摩美術大学。現在、美術学部・教授。