文=中野 中
(51)酷暑に思いは巡りめぐって

昨年の夏は暑かった。いままでとは次元の違う暑さだった。ところが、ことしは昨年を上まわる暑さだ。テレビの気象予報では連日、熱中症警戒に加えて“(命に)危険な暑さ”を連呼している。それが異常でなく日常化してしまっている。
地球温暖化のギアが一段階、明らかに上がった証左である。
かといって、終日、冷房をかけっぱなしで冷たい水ばかり飲んで、やる気は失せて部屋でゴロゴロしていて、“これでいいのか”と、腹の虫が呆れてタメ息をつく声が聞こえてくるようだ。
そんな腹の虫に急かされて、お盆の一日、暑さを言い訳に墓参をさぼったのに、日照りの只中をこれといった用もなくバス、小田急、地下鉄2路線を経て都心へ出かけた。日陰を拾いながら日本橋〜京橋〜新橋を、デパートで涼をとったり、盆休み返上で開いている画廊へ、脇道へ入って立ち寄ったり、ドトールで何度も休憩してアイスコーヒーを飲んで……。意外というか、それがジャパンの今の姿なのか、銀座の本通りには日本人はちらほら、元気に声高に話しながら闊歩しているのはインバウンドの人たちばかり。
旅人ばかりでなく、日本で働く外国人たちを蔑ろし、排斥する声高な人群れが多くの支持を得ている。それも今の日本の現状なのだ。
いや、日本ばかりではない。パレスチナ自治区ガザで50万人以上が最も深刻な「飢饉」状態にあると、国連が発表している。ロシアのウクライナ侵略戦争は3年半続き、あちこちに首を突っ込み裸の王様ぶりを振りまいている破廉恥漢がいる。世界中が狂気化しつつあり、地球も熱球化して爆烈するのではないのか。本気で心配したら、それこそクレイジーになってしまう。

玉音放送を聞く日本国民(1945年8月15日午後12時)
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ことしは〈戦後八十年〉であり、〈昭和百年〉に当たり、昨年あたりから新聞などで様々な企画が展開されている。美術界でも同様である。ことに1945年8月は、広島と長崎の2度の原爆投下がされ、15日に敗戦を告げる天皇の「玉音放送」がなされたことで、まことに喧しかった。多様な報道や論潮は、それはそれとして様々な新発掘も知らされた。
納得し難いのは、たぶんに意識的に終戦が多用されているように感じられることだ。歴史の事実としては〈終戦〉と〈敗戦〉とをしっかりと峻別して使わなければいけないであろう。事実は多く表舞台に披露されるが、その検証が深堀りされない。政治に関わることや社会的にマイナス効果が多ければ多いほど、紋切り型で糊塗されてしまう。
だから、日本は戦後一度も戦争はせず、平和であった、などと無責任きわまりない放言がまかり通っている。その厚顔無恥が日本の指導者面で横行している。

敗戦した1945年8月15日には、筆者は生後1年と9カ月24日で、幸か不幸か生々しい体験の覚えがない。それでもいくつか鮮明に思い出されることがある。それらは筆者にとっての原体験と言えるのだろうが、正確には周囲の大人たちから聞かされた伝聞や知識から形成された追体験であろう。
その一つは、爆撃機B29の飛行編隊である。北信濃のかた田舎にいたのだが、千曲川沿いに銀翼きらめかせて北上してくる。それは少しの恐怖心もなく、美しい映像として刻印されている。この強い印象のゆえにか、飛行機乗り(パイロット)になるんだと、のたまっていたそうである。
二つに、母の姿である。当時、父は町の総合病院に薬剤師として勤務していた。その病院裏の空地で鍬をふるっていた母の姿を思い出す。容赦なく真夏の太陽が照りつける中、石ころだらけの痩せ地を耕していくばくかの菜っ葉を得ようとしたのであろう。姉さんかぶりにした手拭いで首筋にしたたる汗をふく小柄な母の姿を思い出すたびに、神々しくも哀しく思われた。私は木陰で4つ歳下の弟を乳母車であやしていたのではなかったろうか。
三つに、墨汁をふりかけられた土蔵の白壁である。母方の実家は材木商を営む資産家だったようで、いくつかの土蔵を持っていた。白壁は夜目に目立って空襲の目標に恰好なものになってしまうだろうということで、バケツいっぱいの墨汁を竹箒にふくませて白壁めがけてふりかけたのだ。あとになってその様子は滑稽味を持って思い出されてくるのだった。
書き出したら次々と思い出されてくる。
前後の脈絡がつかないのだが、家屋の引っ越しの折だったろう。つぐら(藁で編んだ保温器で大きなお釜をまるごと入れた)に入って一人はしゃいでいた自分を思い出す。家財道具をゴッチャにリアカーに積まれていたのだが、リアカーを引く父の背中の大きかったことも覚えている。
防空頭巾はずいぶん後まで重宝した。綿入れで暖かかったので、冬の登下校にとり合ったりしたものだった。が、空襲で逃げまわったとか、防空壕のことはまったく記憶にない。空襲はなかったのか。ただ、空襲警報のサイレンが鳴り響くたびに停電になった。暗闇に揺れる一灯のろうそくが今はなつかしい。

お盆のころから蟬の鳴き声が喧しい。わずか一週間の命を一日中鳴き続ける。あの必死懸命な鳴き声に、思わず我が身を思う。蟬は死んでどこへ帰るのだろう。
中野 中
美術評論家/長野県生まれ。明治大学商学部卒業。
月刊誌「日本美術」「美術評論」、旬刊紙「新美術新聞」の編集長を経てフリーに。著書に「燃える喬木−千代倉桜舟」「なかのなかまで」「巨匠たちのふくわらひ−46人の美の物語」「なかのなかの〈眼〉」「名画と出会う美術館」(全10巻;共著)等の他、展覧会企画・プロデュースなど。