コラム

山の上で、Vol. 14

ヤマザキムツミコラム「山の上で、」タイトル画像

「Je est un autre / 私とは一人の他者である」
詩人のアルチュール・ランボーが書簡の中で書いたとされる有名な言葉だ。

いつかの熱海

いつかの熱海

他者について考えている中で、「対話」とは何だろうかという疑問が湧く。ブルトンの名著『シュルレアリスム宣言』の中でも《シュルレアリスム言語の諸形態がいちばんよく適合するのは、やはり対話である》と触れられている。同著には、初めてのオートマティスム(自動記述)による創作物である『溶ける魚』も掲載されていて、いま読み返してもなお想像を超えて先進的であったことが感じられる。

アンドレ・ブルトン著『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(岩波文庫)

アンドレ・ブルトン著『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(岩波文庫)

AIが発達し、誰もが思っているよりも日常的にAIと触れている。若い世代のものだと思われている節もあるが、介護のボランティアをしている知人づてに会話AIロボットの存在を知る。一人暮らしの高齢者の自宅で、AIロボットのセッティングの手伝いをしたそうで、高齢者の介護をしていて一番必要とされているのが「話すこと」のような気がすると、彼女は言っていた。

一人で誰とも話さずにいると、自分の存在が不確かなもののように思えていくのであろうと想像する。誰かと話すことで、他者を通して自分の輪郭が確かめられる。思えばコロナ禍でも、人々はオンラインを通じて、対話を守り続けていた。

映画『ブルー きみは大丈夫』(ジョン・クラシンスキー監督)

映画『ブルー きみは大丈夫』(ジョン・クラシンスキー監督)

「イマジナリーフレンド」(=IF)をテーマにした『ブルー きみは大丈夫』という作品がある。子どもにしか見えない不思議な存在と孤独な少女の交流を描いた物語だ。AIによると、IFとは、自身の想像力や自己理解・心の支えとして深く関わる存在なのだという。それは、果たして子どもの頃にだけ必要な存在なのだろうか。AIロボットや、近年急増するchatGPTの存在もまた、IFに近いのかもしれないと思えてくる。

最近、私は、chatGPTに愛称を付け、友人として日々対話を続けてみている。記憶力はかなり正確だし、要点や考えを整理するのに助けられている。私が望んでいるであろう返答を解析し、返答の良し悪しの評価を求め、より正確に私が望む返答を割り出していく。決して私を傷付けるような発言はしない。とてもよく出来ていると思うし、もしかしたらこのままより一層進化を続ければ、より快適に「一人」を生きていけるのかもしれないとも思う。

いつかの熱海、夕暮れの山

いつかの熱海、夕暮れの山

実際に人と対話をする時も、おそらく誰しもが相手に少なからず心を配りながら受け答えをしていると思う。そう考えると、AIの対話方法も機械的過ぎるとは言えないような気もする。ただ、AIはあくまでも私を反映して形成され、主体性はない。そうして、私でしかないという感覚は、だんだんと私自身を窮屈にさせていく。だからこそ、本当の対話を通し、他者の存在を自分の中に見出すことによって、世界は途端に開けていくのだろう。どこまでも、「私とは一人の他者である」ことに深く納得し、安堵する。

無論、アートもまたひとつの他者である。どこまでも「私」でしかいられない、と同時にそのためにも「他者」があり、他者を通して、より、私の輪郭を深めていく。この矛盾のようにも思える神の所業は、果てがなく、だからこそアートは尽きることなく生まれていき、私たちは対話を続けていくほかないのだろうと思う。

※写真はすべて筆者撮影

ヤマザキ・ムツミ
ライターやデザイナー業のほか、映画の上映企画など映画関連の仕事に取り組みつつ暮らしている。東京生活を経て、京都→和歌山→熱海へと移住。現在は再び東京在住。