文=佐々木 豊

文章と絵画
1960年頃までは、ヨーロッパへ留学するのは船で横浜から1ヵ月。或いはシベリア鉄道という陸路しかなかった。藝大声楽科出身の中島美鶴氏を横浜から見送ったのは、藝大仲間で最初の派手な行事だった。「巴里へ着いてとてつもない秀才に出会った」という第一報。それが、のちに美術評論で活躍する高階秀爾氏だった。40年後、百貨店のバルティス展の出口で高階氏を見つけたので「先生、美術界で僕が最初にあなたの秀才ぶりを知ったのですよ、あの声楽家の中島美鶴さんをご存じでしょう?」「よく覚えてますよ」と相好をくずされた。
高階氏の有名な著書「ピカソ:剽窃の論理」を小生、何度読んだことだろう。「ピカソのほとんどの作品は、先人からのいただきである」こんな衝撃を受けたことはない。
その直後、美術雑誌に氏の文章を見つけた。具象絵画は、文章でいえば文語体である。これにもショックを受けた。東京都美術館に並んでいる絵が殆ど全部抽象画だった頃で、小生もキャンバスを寝かせて絵の具を流したりして抽象を試みた。だが、全然おもしろくない。小生の師匠でもある三尾公三先生も、板張りキャンバスにセメントを流して漆喰状の抽象を試みていた。のちに全国的に知られるようになるヱアブラシによるフォトリアリズム絵画以前の話である。しかし小生、どう試みても抽象には馴染めなかった。で、誰になんと言われようと具象に戻ろうと心に誓った直後だった。その頃、ある美術雑誌に高階氏の文章が掲載されているのを見つけた。もはや、具象絵画は文章に例えれば文語体である。すると俺はちょんまげを結っている絵描きか! 少し寂しくなった。
それから何年かして高階氏と出会った。氏が敬愛するフランスの画家、バルティス展が百貨店で開かれた。会場の出口で氏が座っているのを見つけたのである。自己紹介も兼ねて氏に向かって話かけた。「高階さん、私は誰よりも早くあなたの秀才ぶりを知った絵描きです。声楽家の中島美鶴さんをご存じでしょう?彼女から、とてつもない日本人の秀才に出会ったという手紙が届いたのです。」「あ、あの歌手の中島千波、いやごめん中島美鶴さんね」意表をつかれた氏の驚きの表情。

佐々木豊《水辺で唱え》
さて小生、中学から高校にかけて、2人の小説家にかぶれていた。三嶋由紀夫と太宰治である。2人とも自死、太宰は入水自殺、三島は誰でも知っているあの壮烈な死。この2人の作家に対する小生のかぶれ方は尋常ではなく、近代能楽集「邯鄲」を高校の文化祭の特設会場で主役を演じたのである。
小生が銀座の文春画廊で開いた初個展に小生の友人と現れた横尾忠則氏が小品を1点買ってくれた。これが縁で横尾氏は祖師ヶ谷大蔵の小生のアトリヱに足しげく訪れるようになった。「絵描きはいいなあ」小生の絵の具をこねているうちに朝になり家に帰らず、勤務先の日本デザインセンターへ。心配した奥方が会社へ電話をかけ第一声が「この馬鹿野郎!!」これが契機となりの成城学園の横尾氏のアトリヱを頻繁に訪れるようになった。
ある時、横尾氏が小生のアトリヱの本棚に三島由紀夫だらけなのに気づき廊下の共同電話に向かって叫んでいるのが聞こえた。「もしもし三島さんですか、パーティーには家内と出かけますのでよろしく」このようなスタンドプレーが大好きなのが横尾忠則だ。
佐々木 豊
画家/1935年愛知県出身。1959年東京藝術大学油画科卒業、1961年同専攻科修了。受賞:1959年国画賞(1960年も)、1961年国画35周年賞、1992年第15回安田火災東郷青児美術館大賞、1993年・2001年両洋の眼展:河北倫明賞など多数。1980年東京藝術大学非常勤講師、1991年〜2006年明星大学教授。日本美術家連盟理事。技法書『泥棒美術学校』(芸術新聞社)は10版を重ねる。他に著書多数。