コラム

美のことごと -37-

文=中野 中

紙媒体として発行していた雑誌「美術屋・百兵衛」No.23(2013年10月発行)からロングラン連載中のコラム。好評につきWeb版の「美術屋・百兵衛ONLINE」でも連載を継続します(3ヶ月ごとに更新予定)。美術評論家の中野中氏が、日頃の活動の中で気になったさまざまな「美」についてじっくり語ってくれます。(編集部)

(37) “ホンマカイナ” ー 魚にも自分がわかる ー

東京・新宿の中村屋サロン美術館で昨秋、『自身への眼差し ―自画像展』が開かれた。
展示構成は、〈幕末・明治 ―再現描写の追及〉〈明治中期・後期 ―自己の内面の表現〉〈大正・昭和前期 ―公と個の間〉〈戦後 ―関係性の中の自己認識〉とされ、自画像を描いた画家の意識や狙いと社会性がほぼ解る。
自画像は言うまでもなく、鏡に映る自分の顔を描いた絵画で、西洋では平滑な金属の薄板をガラスと合わせてつくる鏡の精度が高まった16世紀ごろから多く描かれるようになり、早い時期の例としてアルブレヒト・デューラー(ドイツ、1471〜1528)がよく知られる。
もちろん、水面や磨いた鉱石などにぼんやりと映る顔を自分だと認識するのは、ギリシア神話に登場する。ナルキッソスが泉に映る自分自身に恋情を抱き水中に身を投じたという、誰もが知る周知のお話である。
日本で自画像が描かれるようになるのは、洋画が移入される19世紀後半からだが、それは鏡のゆえでなく、“自我意識”が生まれるまで待たねばならなかったのである。

岸田劉生「自画像」の画像

岸田劉生「自画像」1913年 公益財団法人日動美術財団蔵

 

ところで、わたしたちは毎日何度か鏡に映る顔を見て、顔色をうかがったり、髪を整えたり、髭も剃るし、女性は化粧をする。その顔に何の疑いもためらいもしない。しかし実は、左右反転しているのだ。
鏡に映っているのは確かに自分である。
が、真に自分なのか。
ひょっとしたら違うのではないか。
否、やはり自分なのだ。
(自分の顔と自分の背中は、肉眼(生(なま))で見ることは貴賎貧富を問わず誰ひとりとして不可である。“顔に責任を持て”とか“背中で語れ”という。なぜ顔と背中なのだろうか)。

“自画像” を描く作家はどう考えているのだろうか。
〈新世紀の顔・貌・KAO ―30人の自画像〉展を10回、299人に描いていただいたことがある(2001〜2012年)。その折に寄せていただいたコメントからいくつか紹介してみたい。

“鏡のなかの自分との対決となる。「見る見られる、触れる触れられる、感じる感じられる…その交差による火花の燃え拡がりが存在の証」などといったところではない。左右逆の鏡像との闘いだ。自刻像ともなるとその執拗さがまといつく…”(市村緑郎「六十路の坂」)

市村緑郎「六十路の坂」の画像

市村緑郎「六十路の坂」

 

“鏡に写る顔をしみじみ見つめていて、私にとって最も身近な身内のはずですが、これまで一度も、肉眼で肉顔を見たことがないことに気付きました。魅力的な顔だとばかり思い込んでいたのです。鏡の中の虚像は、見続けるには耐えがたい代物だったのです。
或る日、裸婦の写真を貼ったところ、前より少し気楽に鏡に向き合えるようになりました。しかし虚像の貧しさは以前と同じです。鏡が少々ゆがんでいるのかも知れません。”(富田文雄「自画像」)

富田文雄「自画像」の画像

富田文雄「自画像」

 

“この作品は、自分の顔を描いている本当の私が筆を持って鏡の外にいて、鏡のなかの虚像が自画像として描かれている私であり、その向こうに未来の姿としての私がいる。自画像を描く私を含めて三つの空間を持っているのだが、何時の日か一番向こうに描かれている私が現在の私となり、自画像として描かれた私はありし日の私の姿に入れ代わる。そして絵を描いている本当の私自身は消滅してしまう、そんな思いを込めた作品です。”(瀬川明甫「移り行くもの」)

瀬川明甫「移り行くもの」の画像

瀬川明甫「移り行くもの」

 

×     ×     ×

さて、掲題の〈魚にも自分がわかる〉に急行することにしよう。
いつものように書店で漠然と、何か面白い本はないだろうか、と見歩いていたところ『魚にも自分がわかる』(幸田正典著、ちくま新書)という背文字が目に留まった。学術書的な副題 ―動物認知研究の最先端― にいささか尻ごみしながら、数頁をパラパラめくり目を走らせた。

ホンソメワケベラ(魚)の画像

ホンソメワケベラ

―ホンソメワケベラという10センチもない小さな熱帯魚が、鏡で自己の顔を覚え、そのイメージに基づいて鏡像自己認知を行っていることが、明らかになった。…
―そのやり方はヒトとほぼ同じなのである。つまり、小さな魚とヒトで、自己認識という高次認知とその過程までもがよく似ていたのだ。…
―こんなことを、これまで誰が予想しただろうか。…
まったくもって “ホンマカイナ”(著者の言葉)なのである。ちゅうちょなく990円を投資すべくレジへ向かった。
これまで自己認識、つまり鏡の像を見て自分か否かを判別できるのは、わたしたち人類(ホモ・サピエンス)と大型類人猿のチンパンジーとボノボ、ゴリラ、オランウータンの4種だけとされてきたが、近年、テナガザル、イルカ、ゾウ、カケス、カササギが加わり、いままたこれら脊椎動物のなかでもっとも単純で、本能的にしか生きられないとされてきた小さなホンソメワケベラが加わることになった。

小林真紀「APES I」の画像

小枝真紀「APES I」2021年

大型類人猿(APE)が絶滅危惧種に。遠からず人類も…

実験過程のサワリをダイジェストすると、以下のようである。
ホンソメワケベラは一夫多妻の社会を持ち、体につく寄生虫を互いに捕る習性を持つことなどから、個体の区別は顔でされていることを確認。そこでいよいよ鏡を見せてみた。
最初は鏡を攻撃していたが、3日目ごろから鏡の前で上下逆さになったり踊ったり、チンパンジーの時と同じように不自然な行動を始め、1週間で攻撃を止めた。
次いで、チンパンジーの実験にならってマークテストを始めた。例えば、額や頬に赤い印を付けると、鏡ナシでは何事も起きないが、鏡アリでは赤い印を擦(こす)りつけるなど確認しようとする。無色透明のマークでは何の変化も起きなかった。
これは明らかに“自己確認”行為なのだ。この瞬間を見て、「あまりの衝撃に“オーッ”と叫んだ。ほんとうに椅子から転げ落ちそうになった」と著者は書いている。
動物能力の常識をひっくり返したストーリーに興味ある方に、一読をお奨めする。
常識は破られるためにある。

吉村知美「マッスル」の画像

吉村知美「マッスル」2021年

立派なお尻に魅了され、マッチョなゴリラをポップに。

 

中野 中
美術評論家/長野県生まれ。明治大学商学部卒業。
月刊誌「日本美術」「美術評論」、旬刊紙「新美術新聞」の編集長を経てフリーに。著書に「燃える喬木−千代倉桜舟」「なかのなかまで」「巨匠たちのふくわらひ−46人の美の物語」「なかのなかの〈眼〉」「名画と出会う美術館」(全10巻;共著)等の他、展覧会企画・プロデュースなど。

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