コラム

日々是好日 −画家の書斎から−
第7回

      文=佐々木 豊

賑わいの海

《海辺》画像

《海辺》130.3×162.0cm 2011年

 

『重い手』

鶴岡政男の『重い手』をご存知だろうか。戦後美術の人気投票で、いつもNo.1に挙げられる傑作である。
グローヴのような大きな手が、痩せ細った胴にぶら下がっている人物像は敗戦後の苦しい生活感情を露わにして心をゆすぶられる。
その鶴岡氏をアトリヱに訪ねてインタビューする仕事が舞い込んできた。
1966年の当時、鶴岡氏は50代後半、小生は30歳になったばかり。
美術関係者なら、誰でも読んでいた「美術手帖」誌のアトリヱ訪問シリーズの一環だった。
鶴岡氏は世田谷の粗末なアパートに住んでいた。ひと部屋きりの6畳間がアトリヱ兼寝室だった。
狭いので描きかけの絵を庭から眺め、部屋へ入ろうとしたところを、通りがかったお巡りに泥棒と間違えられて御用となった逸話の持ち主である。

さて、カメラマンと編集者の前で、開口一番「『重い手』を描くきっかけについてお聞きしたい」と切り出すと、「ま、固いことは言わずに、これでも聴きなよ」とテープを取り出した。聞こえてきたのは怪しいうめき声である。昨夜、録音したという。そのかすれ声が延々と続くのである。
『重い手』について聞き出せたのは、ぽつりと発したひと言だけだった。「あの時はあんなものでも描くしかなかった」

 

稲村ヶ崎での徹夜パーティ

実は鶴岡氏とは、その時が初対面ではなかった。月に二、三度は会っていた遊び仲間の一人だった。のちに流行作家として一世を風靡することになる森瑤子や、女子美出身のファッションイラストレーターの橋爪ベベたちの自宅の庭で開かれたガーデンパーティに現れて、ボンゴを打ち鳴らして、盛り上げるのが鶴岡氏の役目だった。
みな20代だったが鶴岡氏だけが親たちと同年代だった。
そんな遊び仲間の一人が「鎌倉近くの稲村ヶ崎の海岸で夜通の大パーティが開かれる」と願ってもないニュースを知らせてきた。

みんなで終電車に乗って、湘南方面へ向った。
海岸ではすでに火が赤々と燃えていた。
トラックで材木を運んだという。持ってきた絵の具で黒く塗ってみんな原始人になった。
人が集ってきた。新宿の「風月堂」やお茶の水の「ジロー」の常連客の顔も見える。後で聞くと三島由紀夫やとり巻きの一人、美少年のピーターも来ていたという。
鶴岡氏が激しくボンゴを鳴らし始めた。全身から汗が飛び散る。その音に合わせたように裸の男が飛び出してきて砂の上を跳ねるように踊り始めた。
誰かが彼の名前を叫んだ。人気の高かった「暗黒舞踏団」の有名な踊り手だった。
東の空が白らむころ、砂浜の上に折り重なるように寝た。夏とはいえ、明けがたの海岸は冬と変らぬ寒さだったからだ。
この夏を最後に遊び仲間と海へ行くことは無かった。一人、また一人と結婚していくので、グループは自然消滅したからだ。

 

再会の葉山

小生も結婚して、葉山の海へ出かける時は、妻と長男の太郎を伴なっていた。あの稲村ヶ崎の隣りの海である。石原慎太郎の『太陽の季節』の舞台となった海だ。
水ぎわ近くで泳いでいると、ちくりちくりとくらげの攻撃にさらされる、きびしい海でもあった。沖あいならば大丈夫だろうと水平線に向って泳いでいくと岩山が近づいてきた。
ひと休みしようと見上げると、岩の上に男女の姿があった。二人とも上半身は裸で、男が女の肩に手をかけて、強く引き寄せている。男の方は見憶えのある顔である。何と鶴さんだった。水面から顔を出して、「鶴さん、俺だよ」と叫んだ。すると鶴さんは「何だ、君か」。小生の顔からすぐ目をそらすと、女の肩をぐいとひき寄せた。

《お舟を浮かべて出かけましょう》

《お舟を浮かべて出かけましょう》130.3×162.0cm 2013年

佐々木 豊
画家/1935年愛知県出身。1959年東京藝術大学油画科卒業、1961年同専攻科修了。受賞:1959年国画賞(1960年も)、1961年国画35周年賞、1992年第15回安田火災東郷青児美術館大賞、1993年・2001年両洋の眼展:河北倫明賞など多数。1991年〜2006年明星大学教授。日本美術家連盟理事。技法書『泥棒美術学校』(芸術新聞社)は10版を重ねる。他に著書多数。