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2012年10月13日発行「美術屋・百兵衛」No.23より
池田龍雄インタビュー

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池田龍雄インタビューのメインビジュアル
池田龍雄が現在の佐賀県伊万里市に生まれたのは、1928(昭和3)年のこと。翌年ニューヨーク証券取引所での株価大暴落を引き金に世界大恐慌が発生し、暗い時代へと突入していく。1931(昭和6)年には満州事変が起こり、その6年後には日中戦争が開戦。日本が戦争の泥沼の中に突入していくこの時代、池田は周囲の友人たち同様に軍国主義に染まり、特攻隊員となる道を選ぶ。そして終戦。社会の価値観は180度変わり、池田も国家や組織の欺瞞に気づき、やがて反骨の前衛アーティストとしての道を歩き始める。

絵が得意なワンパク少年が
やむにやまれぬ責任感から、
予科練に志願するまで。

──池田さんは佐賀県伊万里市ご出身だそうですね。
池田「僕の生まれた当時まだ伊万里市に編入される前で、二里村と言ってました」
──どんなお子さんでしたか?
池田「オッチョコチョイでワンパクでした。近くに川や山がある田舎でしたから、よく外で遊んだもんです。でも、うちの父は大正時代にヨーロッパに行ったりしたような文学青年でね。家の書棚には文学全集など本がぎっしり詰まっていて、早くから読書にも親しんでました」
──意識して絵を描くようになったのはいつ頃ですか?
池田「小学校1年生の秋に、誘われてスケッチ大会に行ったんです。伊万里の香橘神社にあった日露戦争戦没者を追悼する忠魂碑を、画面いっぱいに描きました。それを先生が福岡日々新聞社主催の児童スケッチ大会に応募してくれまして。北部九州からたくさんの子供たちが参加したんですが、そこで三等賞の銅メダルを受賞したんです。また、その翌年には佐賀県のコンクールで銀メダルを受賞。その時は父がとても喜んで、賞状を額に入れて家に飾ってました」
──子供の頃から才能の片鱗を見せていたんですね。ただ、その頃すでに日本には戦火の足音が迫っていたとか。
池田「小学校2年生の頃には支那事変が始まり、6年生では立派な軍国少年でした。一方で『子供の科学』を愛読しており、将来は科学者か発明家になりたいと思っていたので小倉の工業学校に行きたかったものの、家庭の事情もあって地元の伊万里商業に進学。当時すでに学校では軍事教練なども始まってました」
──そして、予科練(海軍甲種飛行予科練習生)に志願された。
池田「伊万里商業3年生のある朝、担任の数学教師が『誰か予科練に志願する者はいないか?決意した者はこの場で立て!』と言ったんです。みんな下を向いて、気まずい沈黙の時間が過ぎました。僕は級長をしていたため、妙な責任感から立ってしまった。結局3年生から5年生まで、よく覚えてないけど50人ほどだったかな。同じ学校から予科練を受験して、合格者が13人。僕は目も良かったし、体操部にいて体力や敏捷性もあったから合格できたんでしょう」
──それが1943(昭和18)年、15歳の時ですね。
池田「10月1日付けで鹿児島海軍航空隊に入隊し、翌年7月には予科練習生課程を修了。宮崎県の富高航空隊へ。予科練から飛練(飛行練習生)へ移ったわけです。そこで戦闘機の操縦員になってさらに訓練を続けます。1945(昭和20)年2月に飛練の課程を終え、山口県の岩国航空隊に配属されました。そして4月、特攻隊に編入され、5月に霞ヶ浦航空隊(茨城県)へ移動。そこで終戦を迎えることになります」
──除隊後は何をしようと考えておられたんですか?
池田「終戦直後はまだ軍国主義の影響から抜け出せてなかったのでしょう。生き残ったことが申し訳ない、恥ずかしいという心中でした。予科練で知り合った親友が訓練中に墜落して死んだり、自分自身も辞世の歌など詠んでましたから。それでも、ともかく実家に帰ろうと思って、霞ヶ浦から3泊4日かけて伊万里に戻って来たんです」
池田龍雄_肖像写真(2)


反戦、反核、反権力。
反骨精神溢れる前衛画家になった理由とは?

──復員後、一度は佐賀師範学校に入られます。
池田「終戦時、まだ17歳。若いせいか知識欲に飢えてました。かといって、もはや伊万里商業に復学するのもどうかと思っていたところ、佐賀師範が予科練出身者などを対象に転入学の試験をすることを聞きつけたんです。多数いた受験生の中で、合格したのは僕と海軍兵学校に在学していた人の2人だけ。これで思う存分勉強ができると思ったのも束の間、終戦時に現役下士官以上だった軍人は、師範学校を追放されるということになったんです。より軍国主義的なエリート軍人の卵の方は、兵学校在学中で予備役だったために追放を免れ、僕だけが退学処分。国家のために命まで投げ出そうとした者が、別の国家(アメリカ)の都合で学業をあきらめさせられた。『国家って何だろう?』と矛盾を感じましたね。それ以来、国や会社など、組織や権力というものには信用が置けなくなりました」
──その後しばらくして、磁器(鍋島焼)の研究所に入られます。
池田「他人の言いなりになりたくない。その点、芸術は自由でいいだろうと考えたんです。でも、研究所とは名ばかりで、実際には一日中〝青海波〟の文様を描くばかりの、まるで徒弟教育。小説は読むな、映画は見るなと言われて我慢できず、3日で辞めました」
──多摩造形芸術専門学校(現在の多摩美術大学)に入学されたのが、その翌年ですね。
池田「20歳の時でした。伊万里にいる頃から花田清輝の『復興期の精神』なんかを読んでいたから、いつも〝芸術とは何か?〟などと考えていたんです。でも、学校の授業で旧態然とした石膏デッサンなんかやらされて、そんな勉強に飽き足らず、秋頃に岡本太郎や花田清輝を中心に活動していた『アヴァンギャルド芸術研究会』に参加しました」
──学校での勉強はどうだったんですか?
池田「学期末に作品を提出する際、岡本太郎の〝対極主義〟の影響を受けたアヴァンギャルドな絵を描いたんです。教授の伊原宇三郎から、『学生のくせにこんな絵を描くとは生意気だ。点数はつけられん』と言われ、零点を付けられた。芸術作品は本来、点数で評価できないもの。それを『生意気だ』の一言で、正当な批評もなく数量化してしまうなんて……。それ以来僕は、誰かの選別を受けねばならない美術団体の公募展やコンクール形式の展覧会には一切応募しないことに決めました」
池田龍雄_肖像写真(1)
アヴァンギャルド。「前衛、先頭」を意味するフランス語だ。一般的にはあまり使われることのなくなった言葉であるが、独立独歩の池田を語る上では、避けるわけにはいかない。1948(昭和23)年に「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加して以来、芸術のアヴァンギャルドの道を切り開いてきた池田。その時々に描く対象が変わり、技法が変わり、ジャンルの垣根も超えてきた。ただ、作品の奥底にある反戦、反核、反権力といった反骨精神は、84歳の今に至るまで一貫している。
その反骨精神を風刺や諧謔で包み込んだ池田作品群は、諸外国にも類を見ないものあり、日本のアヴァンギャルドとしてこれからも輝きを放ち続けるだろう。

profile
1928年佐賀県出身。1948年多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)入学。まもなく岡本太郎、花田清輝、安部公房らのアヴァンギャルド芸術運動に参加。以来、文学や映画など、多くのジャンルと深く交わりながら、一貫して美術の前衛として今日まで活動し続ける。1954年養清堂画廊にて初個展。以後国内外での個展・グループ展多数。パブリックコレクション:東京国立近代美術館、東京都現代美術館、山梨県立美術館、佐賀県立美術館、和歌山県立近代美術館、他多数。著書:『芸術アヴァンギャルドの背中』(沖積舎)、『夢・幻・記』(現代企画室)、『蜻蛉の夢』(海鳥社)など。

※この記事は2012年10月13日に発行した雑誌「美術屋・百兵衛」No.23の記事を再掲載したものです(一部再編集)。
※池田龍雄氏は2020年11月30日、誤嚥性肺炎のためお亡くなりになりました。生前のご功績を偲び、編集部一同心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

佐賀県立美術館40周年特別展 「あそび、たたかうアーティスト 池田龍雄」
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