コラム

日々是好日 −画家の書斎から−
第2回

      文=佐々木 豊

過ぎ去りし87年間をふりかえる(上)

私の誕生日は7月7日、あと3ヶ月で87歳になる。
若い時と何が違うか? 死の恐怖が薄れたことである。
若い時は死ぬのが怖かった。今の君のように。
45歳で自死した三島由紀夫は、その1年ほど前に文芸誌の質問に答えている。現在の心境は?と問われて。「恐怖」と。
老齢になると、死の恐怖が薄らぐのは、神の配慮だと言った人がいる。
齢をとると、体軀のどこかが痛い。疲れる。夜、床について、このまま眼が覚めなくてもいいや。苦しんで死ぬよりは、てなことにもなる。
ただ、起きている時は、若い時のことがやたら思い出される。
楽しかったこと。苦しかったこと、等々…。
そこで、今回と次回は「人生でいっとう嬉しかったこと」「悲しかったこと」「苦しかったこと」などについて、書いてみたい。
脳科学者の中野信子氏は、言っている。若い時のことを美化して思い出すのは脳が衰ろえている証拠だと。

佐々木豊《老画家》画像

佐々木豊《老画家》2009年/130.3×162.1cm

人生でいっとう嬉しかったこと──東京藝大合格
その年の油絵科の倍率は16倍だった。
1955年、終戦から、まだ10年しか経っていない。上野公園の一角には空襲で家を失った人たちのテント村が密集していた。
夜は入園禁止。
受験番号55番は掲示板の5米先から目に飛び込んできた。熱いものが全身に広がった。
歩きたかった。気がついたら東大の赤門前へ来ていた。
門をくぐると、三四郎池があった。3人の学生服が声高に議論していた。哲学論争でさすが東大だと感じ入った。3ヶ月前までは、同じ年齢の若い衆のワイ談の飛びかううす暗い小屋の中で、日の暮れるまでパチンコの釘を打ち続けていた。その日のような陽光あふれる世界へ投げ出されて喜びに打ちふるえた。

上野公園の西郷隆盛像(写真)

ふり返ると、芸大卒という商標が、その後の人生に、どれほど有利に働いたか。
例えば2桁に近い私の著作物。わけても技法書は通信教育の講談社フェーマス スクールズで、スーパーバイザーという要職にあったから、書けたのである。
50人以上いた美大出の添削要員の全てに目を通すのが、私の仕事であった。その1人の故森本草介。今ではホキ美術館の目玉で日本一高額を誇る、写実の大家も、私の輩下だった。
10年近く一緒に添削業務が出来たのも私が芸大の2年先輩で、顔馴染みであったからだ。

東京芸術大学校門(写真)

思えば苦難の浪人生活であった。
前述したパチンコ工場の休みの日は、自転車で名古屋の北端にある学芸大学を目ざした。当時の美学部の校舎は三菱の工場を使用していた。爆撃で窓は破れたまま、そこから忍び込んで1人石膏デッサンに励んだ。
午後になると、きまって、どこからかピアノの音が流れてくる。いつも、モーツァルトのトルコ行進曲だった。
今だったら、どんな女子学生が奏でているか?のぞきに出かけるけれど、そんな余裕はなかった。
11月末、釘打ち工で稼いだ3万5000円を握りしめて、東京行の汽車に乗った。晩秋の寒い朝、おふくろが重い荷物をかついで熱田駅まで見送りに来てくれた。

蒸気機関車イメージ画像
夕方、東京駅から池上線の溝の口にあった多摩美大の学生寮へ向った。高校の先輩の部屋にもぐり込んで翌日から部屋探し。中野駅前の不動産屋へ日参の毎日。
受験予備校のあった阿佐ヶ谷研究所の近くは、高くて手が出ない。
三鷹駅10分に2500円の部屋を見つけた。
そこから毎日研究所へ通った。
受験までの3ヶ月間で、背景を描く石膏デッサンを習得すれば合格する自信があった。不合格だったら、どこかの看板屋へ飛び込んで住み込みで雇ってもらうつもりでいた。

デッサン用石膏像(写真)
入試直前のある朝、最前列でモリエール像を描いている紺の学生服がいた。不きっちょな腕の運びに、今年も駄目だな、この男は、と思った。
ところが入学式にその男がいるではないか。先年、文化勲章を得た奥谷博である。
昨日、葉山の神奈川県立近代美術館で、彼の個展を観たので思い出した。同級生には、名人芸のデッサンの名手は何人もいた。が、みんな消えてしまった。
香月泰男を育てた瞬生画廊の藤田士朗氏から、私も何度も言われた。「佐々木君は絵が下手だねぇ」と。

佐々木豊《海辺のピアニスト》画像

佐々木豊《海辺のピアニスト》2009年/90.9×116.7cm

佐々木 豊
画家/1935年愛知県出身。1959年東京藝術大学油画科卒業、1961年同専攻科修了。受賞:1959年国画賞(1960年も)、1961年国画35周年賞、1992年第15回安田火災東郷青児美術館大賞、1993年・2001年両洋の眼展:河北倫明賞など多数。1991年〜2006年明星大学教授。技法書『泥棒美術学校』(芸術新聞社)は10版を重ねる。他に著書多数。

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