コラム

日々是好日 −画家の書斎から−
第10回

      文=佐々木 豊

画家として生涯現役でいこうぜ。

締切りがあるから描く?

イケメン評論家の本江邦夫氏とは、生前、何度も対談をした。遠藤彰子氏が、氏に会うととびついて、胸をたたくのは本当か?てなくだらない質問もした。
ご両人とは、大手画材店の世界堂主催の「世界絵画大賞展」の審査で、毎年顔を合わせた。終ると、いつもの喫茶店へ。
椅子に座わった顔ぶれを見て、不思議なことに気がついた。遠藤彰子、絹谷幸二、それに小生。みな団体展に出品している。「本江さん、ここにいる実作家の審査員はみな団体展作家だ。この世界堂のコンクールはどちらかというとフリーの作家の登龍門でしょ? なのに、フリーの実作家の審査員がいないのはヘンじゃない?」「そういえばヘンだよね」
「なぜか分かる? オレの世代で審査員にふさわしいフリーの作家が一人もいないからだよ。ま、横尾忠則くらいか。作家活動をしているのは」この小生の指摘が印象に残ったのだろう。ある団体展のオープニングパーティで、小生の発言を枕に、団体展の存在意義についてスピーチをしたそうだ。
なぜ、フリーの作家が80歳過ぎまで、現役で生き残るのが難しいのか? こたえは簡単である。
団体展作家には会期と会場が常に用意されている。フリーの作家には用意されていない。
ある作家が「なぜ書くか?」という文芸雑誌のアンケートに「締切りがあるから」と答えていた。笑ったね。
しかも会場は、東京のド真中の六本木。高さ8メートルの壁と廣い空間。
遠藤彰子氏のあの1000号(?)の群像は二紀展の名物になりつつある。入口正面に毎年並べられる。客の期待も大きい。遠藤氏の張りつめた気持ちが手にとるように分る。
フリーの作家は、まず会場を見つけなければならない。ニューヨークと違ってわが国で200号を並べられる画廊は皆無である。ま、日動画廊ぐらいか。

佐々木豊《世界名所図絵》

ところで、世界絵画大賞展。今年から、勇退した絹谷氏に替って、若手のフリーの画家、諏訪敦氏が新しく審査員として加わった。これで、バランスがとれることになった。

団体展排斥運動

話はさかのぼるが、「国体展をぶっつぶせ」と叫ぶ、猛烈な団体展排斥運動が巻き起った一時期があったのをご存知だろうか。
わが国独特の親子、子分のありようが、非難されたのである。当時、小生は30歳を越えたばかり、国展で3年連続受賞した勢いで、優遇されていた。
住み心地が良かった。だが、ベテラン会員達は後輩に道を譲るという美名のもとに何人かが退会していった。会員になったばかりの、小生と同世代の気鋭の作家達も、どの会からも去って行った。
その後の退会者が、どうなったか?
ほとんどが行方不明、筆を折ってしまったのである。退会直後の数年間は何度か個展を開いた仲間はいたが、すぐ闇の中に消えてしまったのである。

 

絵は体力だ。

佐々木豊《赤い衣裳》画像

佐々木豊《赤い衣裳》

 

小生、いま2カ所で、ヌードデッサンを教えに行っている。
ひとつは横浜の朝日カルチャーセンターだ。1980年からである。20代だった受講生も、みな60歳以上、平均80歳前後だ。
全員立ったままで、モデルを描かせている。みな元気なのは、立って動き回って描いている点にあると、思う。
かく言う小生、今でも毎朝2日おきに筋トレと週3日の水泳を欠かさない。
10年前まで片手に8キロの鉄アレイを持ち上げていたが、今は4キロ。アトリヱを建てる時に、寝ころんで鉄アレイを持ち上げるために、家の土台を庭までせり出すように設計を頼んだ。
毎朝一時間の散歩をしている。昼食の前には近くの三ツ沢公園のサッカー場の壁に向ってボールを投げてる。
今も体躯を動かす習慣が抜け切らないのは小学生の頃から続けてきた草野球のせいだ。
団体展が上野の都美館から、国立新美術館へ移るのを記念して、公園内の天心球場で独立美術協会とわが国画会が対戦した。生涯でただ一度の満塁ホームランを打った思い出の球場である。
小生は監督兼三塁手。最終回に若手の長打でサヨナラ勝ちした。その年の審査委員長だった小生、国展の図録に次のように描いた。「これで、小生、美術史に名が刻まれることなった。優勝監督として」
当時東京藝大の教授をしていた絹谷幸二氏がお隣りの教官室から抜け出して、最終回の打席に立った。高校時代に甲子園を目ざしたこともあると言っていたから、警戒した。ところが三球三振、1萬圓をチームメイトに渡してまた、教官室へ戻って行った。誰かが言った「一球3阡3百圓か」
3年前、85歳になった時に草野球から足を洗った。40年間チームメイトとして共に泥にまみれた、今、広島県立美術館の館長をしている評論家の千足せんぞく伸行のぶゆき氏が、日本経済新聞に次のように書いてくれた。

(前略)
かつての野球少年たちが集まったチーム名はなぜかフランス語の「ジャルダン」(庭)。筆者もそのメンバーの一人で、30年近いジャルダンの歴史は佐々木さんとの交遊の歴史とも重なる。グラウンドでの佐々木さんは文字通り野球少年さながらのひたむきさで、それだけにたまに(失礼!)クリーンヒットでも打つと、一週間はいわゆるドヤ顔で、周りの人たちは極力彼から遠ざかるという。

気がつけばお互いかつての「野球少年」が遠くかすむ歳となったが、野球も人生も「ゲームセット」はもう少し先送りして、これまで通り絵筆とバットを振り続ける佐々木さんであってほしいものである。(千足伸行 広島県立美術館長/2021年9月10日 日本経済新聞「交遊抄」より)

佐々木 豊
画家/1935年愛知県出身。1959年東京藝術大学油画科卒業、1961年同専攻科修了。受賞:1959年国画賞(1960年も)、1961年国画35周年賞、1992年第15回安田火災東郷青児美術館大賞、1993年・2001年両洋の眼展:河北倫明賞など多数。1991年〜2006年明星大学教授。日本美術家連盟理事。技法書『泥棒美術学校』(芸術新聞社)は10版を重ねる。他に著書多数。