文=佐々木 豊
薔薇は描くまいと決めていた
それは、重要な人物と約束を交わしていたからである。三尾公三といえば思い出す人がいるだろう。
1900年代の後半に一世を風靡した写真雑誌「FOCUS」。その表紙絵を描いていたのが、エアブラシ技法で独特の画風を確立した三尾公三先生である。
先生は小生の中学校の美術の担当だった。日曜日には先生のアトリヱで一日中絵を描いて過ごした。
小生の画家としての出発時に、先生と約束を交わしたのだ。「薔薇と富士は描かない」と。売り絵は描かないということである。
そのかわり、教師でめしを喰おうということだ。いっとき、5ヶ所をかけもちで絵を教えに行っていたことがある。今も、2ヶ所で教えている。
佐々木流、富士の描き方
さて、世紀の変り目に、高島屋の美術部長だった中澤一雄氏の訪問を受けた。「富士山展を企画している。ぜひ富士山を」という申し出だった。「お断りします。先生との約束がありますから」当時の高島屋の社長と三尾先生は戦友同志、特設会場で何度も個展を開いているから、分かってもらえると思ったのだ。
「いや、今まで富士山を描いたことのない画家にお願いしているのです。ですからタイトルも『挑戦 富士を描く』にしたのです」
メンバーを見ると、ほとんどが芸術院会員だ。
一瞬、富士が脳裏をかすめた。アトリヱの屋上から毎朝、眺める富士が。「やったるか!」先生ごめんなさい。亡くなってまだ、1年も経っていない。でも、誓った。八の字の富士だけは描くまいと。その時、頭に浮かんだのは、沖縄などに出かける時に羽田から飛び立って、30分ほどして現れる眼下に広がる真黒い不気味な穴ぼこの富士山である。
50号を縦にして、画面中央に真黒い円をまず描いた。遠景の山並み、空、雲という順番で。
真黒い穴ぼこが大き過ぎて、中に何か描かないともたない。そうだ、裸で横たわる男と女はどうだろう。身投げした男と女……。こうして『富士山心中』はアッという間に仕上がった。
初日、会場へおもむくと、目立つところに掛けてあった。
先輩の画家が近づいてきて言った。「今回は佐々木君にやられたよ」
『富士山心中』は「月刊美術」に、カラーで掲載された。
はじまりは100本の薔薇から
しばらくして大阪の太陽画廊の吉岡さんの訪問を受けた。「薔薇」を描けという。「富士山が描けるんだから薔薇だって描けるはず」。
三尾先生との約束の話をすると、「60歳を過ぎたら何を描いてもええんや」
一週間ほどすると、薔薇がどさっと届いた。吉岡氏からだ。
電話のベルが鳴った。「バレンタインデーにちなんで、100本の薔薇を届けた。あとは描くだけやで」
「薔薇は描いたことがないので、半年ほど待って下さい」
3ヶ月ほどすると「でけてますか」という電話だ。壁に目をやる。30点ほど、みな描きかけだ。「まだ3ヶ月しか……」そう答えるのは簡単だがプロの絵描きではない。
黙っていると「では、あしたお邪魔します」
吉岡さんは口が悪い。正直なところが好きなのだが。いつかアトリヱで絵を眺めている吉岡さんに、「その絵は少し毒が効きすぎて」というと、「毒もクスリもあらしまへん」ときたものだ。
約束の時間に吉岡さんはやってきた。壁の薔薇の絵を眺めながら、めずらしく無言だ。あの饒舌な吉岡さんが。吉岡さんの足もとで黙々と筆を洗い続けた。20秒たった。……30秒たった。……駄目か。落選か。と、その時、うめくような声が上から落ちてきた。
「センセ、感動しましたわ」
1ヶ月後、太陽画廊での個展会場へおもむくと、どの絵にも赤札が。ほぼ完売だった。
佐々木 豊
画家/1935年愛知県出身。1959年東京藝術大学油画科卒業、1961年同専攻科修了。受賞:1959年国画賞(1960年も)、1961年国画35周年賞、1992年第15回安田火災東郷青児美術館大賞、1993年・2001年両洋の眼展:河北倫明賞など多数。1991年〜2006年明星大学教授。日本美術家連盟理事。技法書『泥棒美術学校』(芸術新聞社)は10版を重ねる。他に著書多数。