コラム

街を歩けばアートに出会う
美術探偵の“街中あーと”めぐり  第10回

文・写真=勅使河原 純

ここじゃあ、ゴミだってアートだ

三島喜美代《Work 2012》

 

東京の臨海地帯は、埋立地が広がるなか人工の運河が一直線に走り、総じて未来タイプの風景になっている。なかでも天王洲運河に面した「天王洲アイル」は、約22ヘクタールの敷地いっぱいに商業オフィスビルが建ち並び、ウォーターフロントを象徴するモダンな景観といっていい。浜松町駅発のモノレールが開通してからは、羽田国際空港へと向かう旅行客たちの出発ゲートとしても、大切な役目を果してきている。

海中に土砂が堆積して州となったこの辺りは、江戸期の宝暦年間に漁師の網へ、祇園社などの祭神として祀られていた「牛頭天王」のお面が引っかかったことから、この名がつけられたという説もあるようだ。そして2010年代以降は、東京都の水辺の魅力向上のポリシーと地元のまちづくり運動が一体となり、現代的な美術・音楽イベント・建築などのコンテンツが矢継ぎ早に展開される「運河ルネサンス推進エリア」にも指定されている。そんなことからいまや、世界でも珍しいアメリカン・ポップアートの一大集積地、と目されるようになったのだ。

天王洲アイル、運河の都市風景画像

天王洲アイル、運河の都市風景

 

だからこそ三島喜美代の高さが3mほどもありそうな、巨大金網型のゴミ籠『Work 2012』が、まるでニューヨークの街角のように、すんなりと辺りに溶けこんでいるのかもしれない。作品は東横INN品川港南口天王洲のわきに置かれている。バスロータリーからやってくる親子連れが「ほら、あそこに面白いゴミ籠があるでしょう」などと、指差しながら通り過ぎていく。地元ではそれほどに親しまれ、愛されてきた魅力いっぱいのシンボルなのだ。だが意外なことに、制作者・三島喜美代は東京の人ではない。関西人、それも生まれも育ちも十三じゅうそうというバリバリの難波なにわっ子である。

1932年大阪に生まれた彼女は、大阪府立扇町高校に通いながら油絵を描きはじめる。卒業時には早くも、独立展に入選するほどの腕前となった。当時、関西画壇を席巻していた吉原治良の具体美術とも活発に交流し、しだいに従来の手法には縛られないアヴァンギャルドを志向していく。はじめはキャンバスに筆で、雑誌や新聞紙という「身辺物」を丹念に描いたり、コラージュを試みていたが、すぐにそれでは飽き足らなくなる。ふいに新聞を紙から陶器に変えたら、情報に対する危機感や不安感が表現できるかもしれないという思いに駆られた。落とせば粉々に砕け散る焼物だからこそ、独得の緊張感を孕むのではないか。また立体物としての存在感も、決して弱くないのが焼物本来の持ち味である。

三島喜美代は1970年代に入るとキャンバスを完全に離れ、街角にあふれているゴミやロゴマークをそのままシルクスクリーンで写し取り、陶器上で再現する手法に専念していく。やがて彼女は使い終わった新聞紙が丸められ、アトリエの床に転がされているのを目にして、それをそのまま再現する「Newspaper」シリーズの手法へと辿りつく。読み終えられた新聞紙が、新たなモノとしてのゴミに生まれ変わる刹那の姿だ。こうして三島は現代社会が形づくる価値やモノの循環(リサイクル)を、そのまま自身の作品に封じこめ、巧みに固定化することに成功する。三島喜美代はそれを「情報の化石」と呼ぶのだった。

三島喜美代《Work 2012》

 

さらに『Work 2012』には、アメリカン・ポップアートのもうひとつの特質が封入されている。つまり金網型ゴミ籠の思いがけないサイズだ。清涼飲料水の缶や空箱、酒類のパッケージ、薬箱、化粧品のケースなど、人々の日常生活を支えながらもあっという間にゴミと化したモノたちが、何倍にも拡大して再生産されている。それらの捻じ曲げられたデザインが、街角の新たなランドマークとなるのだった。

三島喜美代《Work 2012》

 

勅使河原 純
美術評論家。1948年岐阜県出身。世田谷美術館で学芸業務のかたわら、美術評論活動をスタート。2009年4月、JR三鷹駅前に美術評論事務所「JT-ART-OFFICE」を設立、独立する。執筆・講演を通じ「美術の面白さをひろく伝え、アートライフの充実をめざす」活動を展開中。

 

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