コラム

街を歩けばアートに出会う
美術探偵の“街中あーと”めぐり  第11回

文・写真=勅使河原 純

地下通路でほほえむマーキュリー

笠置季男「マーキュリー」画像

笠置季男「マーキュリー」(1951)

 

東京・渋谷はいま、百年に一度という大改修工事の真っただなかだ。「JR渋谷駅改良事業」をはじめ、地下を含めた広場の拡充や自由通路の設置をめざす「土地区画整理事業」、さらには渋谷駅を横断するビルの建設などが一斉に進められている。無駄のない幾何学的デザインが首尾よく機能すれば、人々の乗り換えは大いに楽となり、駅の周辺はさぞ快適なリラックス・ゾーンへと変貌することだろう。
ところで美術界には、こうした都市計画の重要性に早くから気づいていた、稀なアーティストがいた。1901(M34)年姫路に生まれ、東京美術学校を卒業してからは藤川勇造に師事した彫刻家の笠置季男かさぎすえおである。もともとは人体立像などを得意とする、二科会の温和にして堅実な具象作家であった。それが太平洋戦争によって人も都市も徹底的に破壊し尽くされるという、今日のウクライナ顔負けの無残な光景を目の当たりにして、大都市の環境を守り再生させることがいかに大切かという事実に、いち早く目覚めたのである。
そのため戦後になると具象彫刻をスッパリと止め、気宇壮大なヴィジョンをうちに秘めた抽象彫刻家、あるいは都市デザイナーへとみごとな変身を遂げていったのだ。つまり美術、アートを作品づくりにのみ限定して狭く捉える職人肌の人ではなく、いわば社会のいろいろな側面に触れつつ、これを積極的に生かしていこうとする広角的視野を内包した、新時代に対応していく全方位型の環境造形家となったのだ。

作画中の笠置季男 画像

作画中の笠置季男

笠置季男「噴水塔」画像

笠置季男「噴水塔」

 

戦後すぐの早い時期だったとはいえ、渋谷の再開発計画という話になると、やはり交通網の整備は外せない課題だ。山手線と地下鉄銀座線その他が、狭い谷間のゆとりのない敷地で立体交叉せねばならないという宿命から、その構造はどうしても複雑にならざるを得ない。大勢の乗客たちをスムーズに捌くことにのみ集中すると、計画はどうしても殺伐とした機能一点張りのものになる。事態を憂慮した営団地下鉄は笠置季男を計画に巻きこみ、立体交叉の各所に彼の手になるシンボル・イメージを配置して、少しでも風通しのいいスペースになるよう画策したのである。
求めに応じて構想されたのが「マーキュリー」像(1951)の同時一斉配置であった。ギリシャ神話に由来する若者が、後ろ髪を風に棚引かせながら、一心にまえへ進んで行こうとする明るくモダンな抽象的フォルムである。置かれた場所は、現在確認できるものだけでも銀座駅4体、日本橋駅1体、池袋駅3体、上野駅1体、浅草駅1体、大手前駅2体、東京地下鉄本社1体、地下鉄博物館1体など、合計17体にもおよんでいる。まったく前例のない試みである。それらが登場から72年を経た今日でも、撤去されるどころかいよいよ親しみをもって市街地に溶けこんでいる様は、まさにメガロポリス伝説のなかでも第一級の妙案だったと云っていいだろう。

笠置季男「マーキュリー」画像

笠置季男「マーキュリー」(1951)

この作家の凄いところは、クールな理論家の面をしっかりと保持しながら、いざ設置となると心の底から湧いて出てくる優しさみたいなものが辺りを包みこみ、決して「人のやった後は歩かない」という頑固一徹な思想性には走らないことだろう。当時の二科会にはトップの東郷青児をはじめとして、激論の末に会を飛び出していった岡本太郎なども含め、作家としての使命感に燃えつつも決して大衆性を置き去りにはしないよき伝統のようなものがあったのだ。さらにいえば、それこそが猪熊弦一郎や山口長男などにも共通する、モダンな時代のお洒落な雰囲気だったのかもしれない。

 

勅使河原 純
美術評論家。1948年岐阜県出身。世田谷美術館で学芸業務のかたわら、美術評論活動をスタート。2009年4月、JR三鷹駅前に美術評論事務所「JT-ART-OFFICE」を設立、独立する。執筆・講演を通じ「美術の面白さをひろく伝え、アートライフの充実をめざす」活動を展開中。