レビュー

2022年度
京都芸術大学卒業展・大学院修了展 レビュー

 

<取材・文/本田 莉子>

2月4日(土)から2月12日(日)に開催された、京都芸術大学卒業展・大学院修了展。昨年のレビューに続き、百兵衛は京都芸術大学に取材へ向かった。
同学は13学科23コースと大学院を有する総合芸術大学だ。毎年開催される、いわゆる「卒展」では、それぞれの専門分野ごとに多岐にわたる作品が出迎えてくれる。
卒展ファンの方ならご存知かもしれないが、同学卒展の特徴はキャンパス全体が展覧会場になることだ。広大な敷地を回りながら作品を鑑賞していると、あっという間に時間が経ってしまう。

今回私は、2名の作家とその作品にフォーカスしてインタビューを行なうことで、作家がどんな背景を持ち、どんなことを意図して制作しているのかということまで考えながら鑑賞するという、美術の醍醐味をここで改めて提案したいと考えている。そのため、多様な学科の力作が揃う卒展だが、ファインアートという限られたジャンルのみを観て回ったので、厳密な意味でのレビューではないということを予め了解していただきたい。
卒展に行き、学生たちの真剣なまなざしを直に感じることができた。もはや学生ではなく、一作家のそれである。そこで、この記事ではあえて彼ら彼女らを学生とは表記しないこととする。

rajiogoogoo《京都トリエンナーレ2023》画像

rajiogoogoo《京都トリエンナーレ2023》(一部)
修士課程のrajiogoogooはトリエンナーレを開催し、教授や学生の作品を学内で展示するという試みを行なった。物質としての作品だけでなく、rajiogoogooの服に付いているQRコードからは、写真・映像コースの髙橋耕平の作品も観ることができた。

西凌平《Athletic Clubs》

西凌平《Athletic Clubs》(一部)

Qian Anni《横、縦、はらい、とめ》

佐谷由佳《庭の絵》画像

佐谷由佳《庭の絵》(一部)

小坂美鈴《聖域》画像

小坂美鈴《聖域》

出展作家インタビュー:服部はっとり 亜美あみ

[作家ステートメント]
2000年生まれ。京都芸術大学写真・映像コース在学中。
服部亜美は、「人」をテーマに制作している。
ある場所のリサーチや取材を行い、対象者や場所と関係性を築いた上で、ドキュメンタリーや映像インスタレ―ションを制作する。
主な作品に、京都で活動する障がいのあるアーティストの大場多知子に数ヶ月にわたり取材し、取材・撮影・録音・編集を全て一人で手がけたドキュメンタリー映像《再生》(2021)がある。数十年もの間、社会と断絶して生活してきた彼女が絵を描くことで再び生きることを選択した姿を写す。また、今なお信仰を受け継ぎ続けるカクレキリシタンの信仰と痕跡を映像におさめ、過去と現代における「信仰」を問いかける映像インスタレーション《信仰と痕跡》(2023)などがある。

 

服部亜美《信仰と痕跡》画像

服部亜美《信仰と痕跡》 撮影:Kenryou Gu

映像を専門とする服部亜美は、『信仰と痕跡』と題した作品を発表した。
展示空間は、プロジェクターで壁一面に投影された映像が2つと、1台のモニターから流れる映像、計3つが混じり合っており、それぞれが互いに呼応する仕掛け。何気ない日常の一場面を映し出す隣で、祈りの言葉をひたすらに唱える人物が投影され、向かいに配されたモニターでは、自然の中に溶け込むかのような神社の静謐な境内が流れる。

これらは、長崎で約400年以上もの間受け継がれている「かくれキリシタン」の人々を1年間取材した上で、映像化されたもの。現代では宗教の自由が保障されているため「隠れ」ではなく、ひらがなで「かくれ」と記すことも多いが、呼び名としては便宜的にかくれキリシタンを使い続けている。かくれキリシタンと聞いて、歴史の授業で学んだ記憶があるという人も多いだろうが、現代にもその信仰を受け継ぐ人々が、長崎の黒崎地区に比較的多いのだそうだ。とは言え、高齢化が進み信者の数が減っており、現在では「帳方」と呼ばれる信仰指導者は村上茂則氏、ただ一人となってしまった。
一つの映像の中で服部が取材した、かくれキリシタンの一人である村上氏が「先祖たちから受け継いだこの信仰は、間違ったものではないと信じている」という内容の言葉が印象的だった。
継承の仕方にも特徴があり、口伝でのみ受け継がれてきた。それも一つの要因なのだろうが、かくれキリシタンの信仰は日本の土着の文化と混じり合い、独特の信仰へと発展したため、一般的なキリスト教徒の信仰とは異なるかたちを持っている。
そんな深淵なテーマを扱った服部に話を聞いた。

「信じる」とはなにか?

──まずは、かくれキリシタンの人々に取材しようと思ったきっかけについて教えてください。
服部:本を一冊読んでそこから作品をつくる「旅と文学」という展覧会に出展した際に、遠藤周作の『沈黙』という小説を読んだことがきっかけです。そこには、命を捨ててまで信仰を貫く人たちの姿が描かれていて、衝撃を受けました。私は無宗教なので。その時から「信じる」っていうことはどういうことなのかって、自分の中に問いがありました。
本を読んでから、かくれキリシタンについて調べてみると、いまも続いているということを知り、行くしかないと思ってすぐに長崎に飛びました。そこで出会ったのが映像に映っていた村上さんです。

葛藤があった

──扱う上で非常に難しいテーマを作品化したのですね。そういった点に関してご自身ではどのように考えていましたか?
服部:私がこういった歴史に触れていいのかという葛藤がありました。あまりにも自分から遠いものだったので。
でも、作品で流している映像に映っている岩を見た時、初めてリアルなものになったんです。その岩は神社の境内の大きな木の下にあり、特に解説がついているような場所ではありませんが、十字架が刻まれていたんです。そこにただポツンとある岩に。それで、「ああ、ここですがって十字架を刻んだ人がいたんだな」って感じたんです。
それから「もっと知りたい、撮らなきゃ」って思って続けてきました。

《信仰と痕跡》の一部

《信仰と痕跡》(一部)
映し出されている岩には十字架が刻み込まれている

時間軸を表した展示方法

──服部さんがとても丁寧にこのテーマを扱っていることが分かりました。今回は2つのスクリーンと1台のモニターによる、計3つの映像によって構成されていますが、この展示方法にはどういった意図があるのでしょうか?
服部:モニターに映っている岩の映像が「形のある信仰の痕跡」。壁に投影されている映像のうち、お祈りを唱えているものが「過去から現在まで伝わってきた形のない痕跡」。痕跡って言っていいのかわからないけど。そして、その隣の映像が「現在のかくれキリシタンの日常」として、3つの映像を流しています。
私はそれぞれの映像に対して、時間軸というか、次元が違うものだと思っていて、過去に残されてきたもの、過去から現在まで続いてきたもの、そして今っていう3つは、混ぜてはいけないと思ったんです。それから、3つのことを同じように流したいし、同等に扱いたいっていう気持ちです。

──プロジェクターの映像を投影するために、板で壁にスクリーンを作っていますよね。細部まで見せ方を工夫していて、それが展示のクオリティーに繋がってるように思います。
服部:映像をそのまま壁に投影するっていうのが、自分としては少し抵抗があったんです。モノで見せたいというか。
単純に壁に投影するということだったら、好きな大きさに映せばいいんですけど、あのスクリーンがあることによって微調整しないといけない。それでもこだわってやりました。

《信仰と痕跡》の一部
向かって右が日常を映し出した映像

村上さんをずっと追いたい

──今後の制作が個人的にとても楽しみですが、どのように展開が考えられるでしょうか?信仰を軸に、別の土地をリサーチする、あるいはかくれキリシタンの人々を追い続けるなど、考えていることをきかせてください。
服部:できれば村上さんにこれからもずっと取材したいと思ってます。この作品は完成ではないと思っているので。いちばん初めは知りたいという思いで長崎に向かったんですけど、仲良くなったので単純に会いに行きたいという気持ちもあります。

 

当事者と非当事者という立場の違いから、こういったテーマを作品化すること自体がアーティストのエゴだと言うこともできてしまう。だからこそ服部は、外部の者であるという自身の視点で淡々と、時間軸の違う痕跡をカメラに収めたのだろう。鑑賞した際に私が感じた作品の「率直さ」は、彼女が葛藤を抱えながらこのドキュメンタリーをつくり上げたことで滲み出たのかもしれない。
服部の作品が展示されている暗室から漏れ聞こえる祈りの声は、岩陰に身を潜めていたかつてのキリシタンの姿を彷彿とさせた。

《信仰と痕跡》の一部
オラショという祈りの言葉を唱えている様子

 

出展作家インタビュー:大上おおうえ 巧真たくま

大上巧真《rub rub rub area area area》画像

大上巧真《rub rub rub area area area》

油絵を専攻する大上巧真の『rub rub rub area area area』は、自身の身体感覚についての認識を作品化したものだ。ここには、パネルに油絵具で描いた作品と樹脂を使ったレリーフ状の作品という2種類の平面、さらに石膏で作られた立体の3つの要素が入り込んでいる。油彩画は、道具を使わずに自らの身体で描いたという。
大上はどのような作品観を持っているのだろうか。

「皮膚の飛び地」

──この作品全体には様々な素材が使われています。素材に対しては、それぞれにどういった考え、または感覚を持っているのでしょうか?
大上:油絵具は染み込まずによく伸びるから、すごく薄いんです。そこが良いところだと思っていて……
僕、帯状疱疹が出て神経痛が残っちゃってるんですよ。それだと皮膚の一枚下みたいなところが痛くなることがあるんです。その時、皮膚の薄さに感覚的に気が付くんです。
その薄さって、絵具に近い。油絵具くらい肌も伸びたら、この痛みもちょっとマシになるかなっていうことも思います。

──では、大上さんにとって絵具は肌ということですか?
大上:そうですね、僕は絵具を使った絵画のことを「皮膚の飛び地」って呼んでいます。
石膏や樹脂に対しては、絵具とはまた違う方法で新しい器官を作っているみたいな感覚です。立体作品は、粘土を口で噛んだものに石膏を流して型を取っていて、何となく背中や身体全体のイメージがあります。樹脂の作品は手や足の甲みたいな感覚です。いつもは手の存在を意識してないけど、手に絵を描くことでその存在を認識するみたいな。樹脂に対してはそう考えてます。

よく見ると粘土を噛んだ歯型が残っている

樹脂の作品

樹脂をつかった平面作品にはドローイングが施されている

 

──作品だけを観ると、一見、痕跡という言葉も思い浮かぶのですが、この言葉は相応しくないということですね。
大上:痕跡というのは違いますね。僕自身の身体が作品によって拡張されることで、縄張りを主張するようなことだと思っています。
例えば、僕の作品を観た人が僕の体格を想像することで、他人の中で僕が勝手に巨大化されていたり逆に縮んでいたり……そういうことを想像するとおもしろいですね。身体の形が変わることが僕にとっては大事なんです。

道具を使わず身体で描いた平面作品

作品と対話するために身体を動かす

──そもそも、身体に興味を持ったのはなぜでしょうか?
大上:僕、家がめっちゃアスリート家系で。従兄弟がプロのキックボクサーで、妹がハンドボールで大阪代表とか、お姉ちゃんもダンス国際大会に出たような家系なんです。僕だけ美術をやってます。僕も中学までテニスをやってたんですけど、美術の高校に進学しました。
それで、上手く描けるとか描けないとかって、体の動かしやすさとかそういう感覚にすごく近いって感じたんです。久しぶりに絵を描いた時にうまく描けないっていう感じとか。だから、身体を動かしたり負荷をかけたりする方が描けるんです。
「ゲーム性」っていう言葉が近いかも。ドローイングとかもチャチャって描き終わっちゃたらつまんなくて。上手くいっちゃった、みたいなのがなんか嫌なんです。ごまかしてるみたいなの自分では嫌で。描きにくかったり作りにくい方が「作品と対話してる」って強く思えるんじゃないかなって。

美術ってもっとおもろいものなんちゃうん?

──ここまで大上さんのお話を聞いていると身体を動かすということに対してアクション・ペインティングや具体などの美術家とは違う意味を持っていると感じましたが、今挙げた美術史の文脈になぞらえて観られるということも多いのではないですか?
大上:そうですね、イヴ・クラインや具体と重ねられることが多いです。イヴ・クラインは自分を写し取った人拓のような作品のイメージが強いですが、「写し取る」というよりは、体の形を変えたりだとか、作品の中で「僕じゃなくなる」ことが大事なんです。そこは大きく違います。

──では、ご自身の作品を観た人にどういったことを感じてほしいですか?
大上:僕の作品に触れて、見える世界が変わったりすることがあったら、と思っています。小さなことでいいから、少し変わったらおもしろいですよね。

大上巧真《rub rub rub area area area》(一部)

 

等身大のスケールで自身の価値観を表現し尽くした大上。しかし本人は展示方法に納得していないようで、「もっとごちゃ混ぜにしたかったんです」と話した。
その具体的なプランを尋ね、私が紙とペンを渡すと大上は嬉々として描き込みながら、「絵画とか彫刻とかインスタレーションとか、そういう枠組みが無い方がおもしろい。美術ってもっとおもろいものなんちゃうん?と思ってるし、僕がやりたいことってそんな枠には収まらないことだから」との想いも明かしてくれた。
美術、特に現代美術ともなると、難解な言葉や思想で語られることが多い。だが、本当に大切なことは「おもしろい」という感覚だ。そのことを大上は思い出させてくれた。

なお、大上は3月13日(月)から3月20日(月)に金沢市民芸術村で開催される「展示力合宿!inかなざわ」に出展予定。詳細は下記のSNSアカウントをチェックしてほしい。
Twitter:https://twitter.com/tenjiryoku
Instagram:https://www.instagram.com/tenjiryoku/

大上が試したいと考えている展示方法のスケッチ
室内に木材で箱を作り、その中に自身の作品を点在させたいとのこと。箱の中には鑑賞者も入ることができ、床や壁に穴が開いているなどの仕掛けもあるそうだ。

 

服部は他者へ、大上は自分へと、探究とアプローチのベクトルが大きく異なる二人に今回インタビューできたことを、私は非常に光栄に思う。
本展はすでに終了したが、各学科の講評会の様子などもアーカイブされている公式サイトもあるので、興味のある方はアクセスしてみてはいかがだろうか。
URL:https://www.kyoto-art.ac.jp/sotsuten2022/

error: このコンテンツのコピーは禁止されています。