アートを学ぶ

ル・サロンについて
──その誕生から現在の歴史 vol.2

2019年のル・サロン

2019年のル・サロン

 

世界最古の公募展「ル・サロン」。ドラクロワ、モネ、ルノワール、セザンヌなど、歴史に名を残す偉大な芸術家を多数輩出してきた格式高い展覧会である。芸術の都・パリで開催されるこの展覧会の歩みを辿り、アートの源流を学ぼう。
(書籍『ル・サロンと日本人芸術家たち』から、一部を抜粋して掲載/記事内の情報、写真等の一部は2014年現在のもの)

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ル・サロンの誕生
──王立絵画彫刻アカデミーからフランス芸術家協会まで  (前回=2022年10月28日更新分より続く)

出展希望者があまりにも多くなり、二流作品を排除し作品展示のクオリティーを保証する必要に迫られ、1746年には既にル・サロン内に出展審査制度を作る計画が生まれていた。限りあるスペースの中で出展作品それぞれに適正な場所を確保するため、出展審査委員会の存在は必須であると判断されたのだ。しかしながら設置後すぐに、その任務は人々に悪印象を与え、一種の検閲のように受け取られた。
この頃、展覧会は1~2ヶ月間の会期で夏に開催され、初日は伝統的に王の祝日である8月25日に定められていた。

サロン・カレには主に絵画と彫刻が出展されていた。絵画作品の展示作業ならびに胸像や立像の設置作業は困難を極め、まず展示壁面の段取りを進める必要があり、壁に通常掛けられている作品を取り外し、窓の位置には仮壁が取り付けられた。その後、「タピシエ(Tapissier)」と当時呼ばれていた展覧会作品展示責任者(この言葉は今日ではこの意味では使われていない)の指示により、作品の分類とそれぞれの配置が決定される。タピシエの仕事は、アーティスト間の人間関係の複雑さに関わる微妙な役割を担っていた。

ル・サロン展の様子(1767)

 

展示壁面は緑色の布で覆われ、上部には大きな歴史画が、下部には比較的小さな作品やトンディ(Tondi=円形あるいは楕円形の作品)が掛けられていた。最も良い場所は当然のことながらアカデミー学長に当てられて、無駄なスペースは1㎡も残されていなかった。作品は床から天井までほぼ隙間なく並べられ、時にはあまりにも高い位置に作品が掛けられることもあったので、作品鑑賞用に双眼鏡を持参する来場者も見られた。場の中央には、同じく緑色の布が掛けられたテーブルが置かれ、その上に胸像や立像や浅浮き彫りの作品の数々が並べられた。
それぞれの展示室は「リヴレ(livret=今日の展覧会カタログ)」の編集者と守衛と記録係らの監視下にあった。現在知られているリヴレ初版は1673年に遡り、そこには208番まで作品が収録され、アーティストと作品の主題を確認しながら展覧会の内容に目を通すことができた。しかし、このリヴレは展覧会をありのまま映し出したものではなかった。というのも、会場に決められた期日より遅れて届いた作品は掲載できなかったり、また様々な事情により掲載作品が実際には展示されないことなどがあったからだ。
記録係は全出展作品のセキュリティーを担う責任者、つまりガードマンであり、数人の監視人を従え、“酔った”人間をはじめ、展示作品を破損したり、静かに鑑賞する来場者らの妨げとなるおそれのある人々の入場を断ることが主な任務であった。こういった理由から、来場者は入り口で杖や傘などを預けなければならず、なかにはサーベルを預ける人もあったらしい。展示作品を破損した場合には懲役20年の刑が定められていたということだ。

2019年のル・サロン

2019年のル・サロン

 

一連のフランス革命が起こるのは1789年のことだが、それによってル・サロンが中止となることはなかった。同年のほぼ同時期つまり8月末に、特にこれといった混乱もなく展覧会は開催されたのだが、通常であれば会場内の通路を行き交う貴族や芸術庇護者らの大多数がこの状況下においてはフランスを立ち去っていたので、彼らに代わって、この時、初めて一般の美術愛好家やコレクターたちが会場を訪れた。

(次回に続く)

※この記事は2014年3月28日に発行した書籍「ル・サロンと日本人芸術家たち」の内容を再掲載したものです。現在と異なる可能性があります。

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ル・サロンと日本人芸術家たち
発行:麗人社 
発売:メディアパル/価格:本体3,518円+税
仕様:A4判・184ページ/発行日:2014年3月28日
ISBN:978-4-89610-827-9