アートを学ぶ

ル・サロンについて
──その誕生から現在の歴史 vol.3

2019年のル・サロン

2019年のル・サロン

 

世界最古の公募展「ル・サロン」。ドラクロワ、モネ、ルノワール、セザンヌなど、歴史に名を残す偉大な芸術家を多数輩出してきた格式高い展覧会である。芸術の都・パリで開催される、この格式高い展覧会について知り、アートの源流を学ぼう。
(書籍『ル・サロンと日本人芸術家たち』から、一部を抜粋して掲載/記事内の情報、写真等の一部は2014年現在のもの)

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ル・サロンの誕生
──王立絵画彫刻アカデミーからフランス芸術家協会まで  (前回=2022年11月13日更新分より続く)

1791年には、8月21日政令第1条で、ル・サロンは出展審査委員会の解散に伴い、全ての人々、ならびに海外のアーティストたちにも初めて門戸を開く自由で普遍的なものであると定められた。
フランスで最も名高いこの展覧会がアカデミー会員だけに限られたものではなくなり、このことはひとつの歴史的変革であった。さらに、開催初日がそれまでの王の祝日から9月に改められた。この新たな自由化に伴い、この年、 ル・サロンはおびただしい数の作品に対処しなければならず、スペースの拡大を余儀なくされ、水際の回廊ならびに階段と玄関ホールが展示スペースのために新たに開放された。この年の出展者数はおよそ1,000名にも及んだという。

Nicolas-André Monsiau《L'Impératrice Joséphine accompagnée du baron Dominique-Vivant Denon visitant le Salon de 1808》

Nicolas-André Monsiau《L'Impératrice Joséphine accompagnée du baron Dominique-Vivant Denon visitant le Salon de 1808》
1808年 ルーブル美術館蔵

 

1793年以降、フランスは革命の真っ只中に突入するが、ル・サロンの開催初日を象徴的な日付である8月10日、つまり王政崩壊の日とすることが定められた。1791年に全てのアーティストたちに出展する権利が認められた結果として、1793年には約7000点もの展示候補作品が会場に届けられ、この年も非常に多数の作品が展示された。政府から任命された出展審査委員会が1798年に再び設置され、これにより出展者数はおよそ300名にまで減少する結果となったが、1799年と1800年には、出展審査委員会は再度廃止されることとなる。

アントワーヌ=ジャン・グロ 《1799年7月25日のアブキールの戦い》画像

アントワーヌ=ジャン・グロ 《1799年7月25日のアブキールの戦い》1807年

王政復古時代当初は、出展審査委員会は政府から任命されたアカデミー会員によって構成されていた。
1833年から1847年にかけて再編成された出展審査委員会は芸術アカデミー(アカデミー・デ・ボザール)の会員で構成されていたが、当時すでにさらなる再編成についての検討がなされていた。

《Charles X Distributing Awards to Artists Exhibiting at the Salon of 1824 at the Louvre January 15th 1825》画像

François Joseph Heim
《Charles X Distributing Awards to Artists Exhibiting at the Salon of 1824 at the Louvre January 15th 1825》

 

共和政が宣言された1848年2月24日、ル・サロンは展覧会準備の真っ只中であった。新しく内務大臣に就任したルドリュ=ロランは、2月29日法令により、再び全ての作品を受け入ることを要求した。この年が、ルーヴル宮殿での最後の展覧会の開催年となる。

 1850年には、ル・サロンはパレ・ロワイヤルに会場を移す。再び設置された出展審査委員会は、1848年に大統領となったナポレオン3世の政府から任命された委員とアーティストたちによって選ばれた委員で構成された。この4年後にナポレオン3世は帝位につく。

1853年から建築が開始された産業宮は、パリ万博開催を機に1855年にシャンゼリゼにオープンし、以来ル・サロンは長年にわたりここを展覧会場と定めた。この頃はル・サロンにとって重大な意味を持つ時代となる。
1859年、出展審査委員会が8,000点以上の出展候補作品のうち、3,045点のみを選び出展作品としたために、大騒乱が生じた。異議を申し立てる人々を追い散らすために、警察が介入しなければならなかった。その2年後、1861年にもその人気は衰えることなく、9,000点を超える作品が出展審査委員会に提出された。

1866年には、出展審査委員会の構成人数は10名から24名に増え、うち6名は政府から任命された。
この年の展覧会初日5月1日には、あまりの喧騒に、警察とデモ隊が再び衝突した。1872年と1873年は、出展審査委員を選出できるのはル・サロンでの受賞歴を持つアーティストだけだったのが、1879年になると、3回以上の出展歴を持つ全てのアーティストにもこの権利が与えられることとなった。

(次回に続く)

※この記事は2014年3月28日に発行した書籍「ル・サロンと日本人芸術家たち」の内容を再掲載したものです。現在と異なる可能性があります。

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ル・サロンと日本人芸術家たち
発行:麗人社 
発売:メディアパル/価格:本体3,518円+税
仕様:A4判・184ページ/発行日:2014年3月28日
ISBN:978-4-89610-827-9
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