世界最古の公募展「ル・サロン」。ドラクロワ、モネ、ルノワール、セザンヌなど、歴史に名を残す偉大な芸術家を多数輩出してきた格式高い展覧会である。芸術の都・パリで開催される、この格式高い展覧会について知り、アートの源流を学ぼう。
(書籍『ル・サロンと日本人芸術家たち』から、一部を抜粋して掲載/記事内の情報、写真等の一部は2014年現在のもの)
『ル・サロンと日本人芸術家たち』を抽選で3名様にプレゼント
ル・サロンの誕生
──王立絵画彫刻アカデミーからフランス芸術家協会まで (前回=2022年11月28日更新分より続く)
1870年代、ル・サロンは来場者数のピークを繰り返し迎えた。日曜日は入場無料の日とされていた。1875年には2,424名のアーティストが制作した3,862点の作品を展示し、49万6千人もの来場者を迎えた。さらに1876年には51万9千人にものぼる来場者が押し寄せた。1880年、ル・サロンは、展示可能作品数2,500とされる産業宮に7,289点の作品を展示するという新記録を達成した。
1870年代末は、展覧会開催組織と政府との分離に先立ち、ル・サロン史上にとって重要な転機を迎える時期となる。ル・サロン組織における政府の役割に関して、下院での激しい討議の結果、政府の役割は現存するアーティストの作品を管理することではもはやなく、才能あるアーティストを支援し彼らの作品を購入して国有資産を作り上げることであると、当時の教育大臣(今日の文化大臣)ジュール・フェリーが承認した。
こうして、のちのフランス芸術家協会の基礎が築かれた。
教育相兼首相ジュール・フェリーは、1880年12月27日、政令により「フランス芸術家協会」(コルベールによって創設されたル・サロンを継承する唯一の団体であり、公共事業団体として認可)の設立を定めた。
委員会メンバー90名(画家50名、彫刻家20名、建築家10名、彫版師10名)の選出を目的に、1度でもル・サロンに出展歴のある全てのアーティストが召集された。委員会は1881年度のル・サロン開催に関する必要事項を計画化する必要があり、1881年1月21日にフランス芸術家協会初代委員会が誕生した。
1882年、フランス芸術家協会は政府から完全に独立し、協会が作成した規約は1882年6月15日に委員会により承認を得て、翌年1883年5月11日にはフランス共和国大統領によって正式に承認された。
ル・サロンの成功と名声はとどまるところを知らず、1887年にはパリ市が8万フランの絵画作品と3万フランの彫刻作品、総額11万フランの作品の数々を買い上げることとなった。
1901年以降、ル・サロンはその展覧会の偉大さにふさわしい会場を手に入れる。それは、1900年のパリ万博のためにプチ・パレとともに建設されたグラン・パレである。どちらの建物もアートに捧げられこととなり、この時からル・サロンの歴史とグラン・パレの歴史が密接に結びついていく。
1910年においてもル・サロンの勢いは衰えることなく、1,200人のアーティストによって制作された約2,000点もの作品が、ますます増え続ける来場者らに紹介された。
第一次世界大戦の影響はル・サロンにも及び、1915年から1917年までの間、開催が一時中断されたものの、1918年には戦災支援を目的としてパリ市後援を受けてプチ・パレにて開催された。この年5月1日から6月30日までおよそ850点の作品が展示された。
1919年に再びグラン・パレに戻ったル・サロンは、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールとともに、同じく戦災支援を目的に開催された。その後は、1925年に開催された装飾芸術国際展覧会にグラン・パレを会場として譲り、同年のル・サロンが5月1日から9月1日までチュイルリー宮で開かれたことを除いては、ル・サロンは1939年の第二次世界大戦開戦の数週間前まで継続的にグラン・パレで開催されることとなる。
(次回に続く)
※この記事は2014年3月28日に発行した書籍「ル・サロンと日本人芸術家たち」の内容を再掲載したものです。現在と異なる可能性があります。
ル・サロンと日本人芸術家たち
発行:麗人社
発売:メディアパル/価格:本体3,518円+税
仕様:A4判・184ページ/発行日:2014年3月28日
ISBN:978-4-89610-827-9