アートを学ぶ

ル・サロンについて
──その誕生から現在の歴史 vol.1

2019年のル・サロン

2019年のル・サロン


世界最古の公募展「ル・サロン」。ドラクロワ、モネ、ルノワール、セザンヌなど、歴史に名を残す偉大な芸術家を多数輩出してきた格式高い展覧会である。芸術の都・パリで開催されるこの展覧会の歩みを辿り、アートの源流を学ぼう。
(書籍『ル・サロンと日本人芸術家たち』から、一部を抜粋して掲載/記事内の情報、写真等の一部は2014年現在のもの)

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ル・サロンの誕生
──王立絵画彫刻アカデミーからフランス芸術家協会まで

ル・サロンの歴史を辿るためには、フランス王ルイ14世(1643~1715)の財務総監コルベールの決意と画家ルブラン(1619~1690)の主導により進められた王立絵画彫刻アカデミー創設の発端まで遡る必要があるだろう。

フランスでは国王や大貴族の間で伝統的に受け継がれているメセナ(学問芸術の庇護)というシステムがあり、ルイ14世は、画家のルブラン、作家のモリエール、ラシーヌをはじめとする当時の一流アーティストたちを支援していた。

ルイ14世画像

イアサント・リゴー《ルイ14世の肖像》1701年 ルーブル美術館蔵

アカデミー誕生において最も重要な役目を演じるルブランは、1648年に、友人達とともに、当時わずか10歳であったルイ14世の側近たちに、アーティストたちに対する社会的地位の確認ならびに若い才能の育成を目的とした王立絵画彫刻アカデミーの創立を認めさせたのである。1660年に国王付きの画家となったルブランは、ヴェルサイユ宮殿と宮殿内の鏡の回廊の装飾家として任命され、1662年には「国王第一画家」という権威ある地位を手に入れた。また翌年にはコルベールより王立アカデミーの学長に任命された。

シャルル・ル・ブランの肖像

ニコラ・ド・ラルジリエール
《シャルル・ル・ブランの肖像》 ルーヴル美術館蔵

 

王立アカデミーは美的感覚形成と芸術的学識において次第にその権威を確立し、1655年には彫版師たちを受け入れ、活動分野をさらに広げていった。また、早くから多彩な才能に門戸を開き、女性も受け入れ始めた。
アカデミー会員らの作品を展示するためにアカデミーが開催していた大規模な展覧会は、販売よりもむしろアカデミーのプロパガンダを目的とし、フランス派のエリートの作品の発表と、アカデミー会員たちが当時の他のアーティストたちよりも卓越していることを示すことを大きな狙いとしていた。

1663年には国王の要望により、アカデミーは展覧会を年1回開催することを決定するも、当初は不定期に開催されていた。最初の展覧会は、1667年4月23日に、パレ・ロワイヤルに隣接するパレ・ブリオンにおいて幕を開け、その後2週間続いた。これがのちに「ル・サロン」となり、会場に財務総監のコルベールを迎えた。

1669年以降、展覧会はパレ・ロワイヤルの回廊とパレ・リシュリューの中庭で開催されることとなるが、1683年から1699年の間、展覧会は開催されなかった。

1699年には、この展覧会が初めてルーヴル宮殿で開催された。
当初はルーヴル宮殿のグランド・ギャラリーで絵画彫刻作品展を開いていたが、のちにこのグランド・ギャラリーの最西端に位置するサロン・カレ(Sallon Carré)に会場を移した。新しい会場で1725年8月25日(聖ルイの日)に初日を迎えたこの展覧会は、これを機に、会場名のサロン・カレにちなみ「サロン(Sallon)」と呼ばれることとなる(のちに当時のSallonから現在のSalonへとスペルが変化する)。

1747年には30万人以上という当時としては驚異的な来場者数を記録し、展覧会はまぎれもない大成功をおさめ、世界でも最多の来場者数を誇るイベントの1つとなった。こうした人気の高さと展示作品数の多さを考慮し、出展審査制度が導入された。

(次回に続く)

※この記事は2014年3月28日に発行した書籍「ル・サロンと日本人芸術家たち」の内容を再掲載したものです。現在と異なる可能性があります。

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ル・サロンと日本人芸術家たち
発行:麗人社 
発売:メディアパル/価格:本体3,518円+税
仕様:A4判・184ページ/発行日:2014年3月28日
ISBN:978-4-89610-827-9