レビュー

[レビュー]
紀南アートウィーク2021


ローカルかつグローバルな取り組みで
持続可能な社会を目指す地方芸術祭

2020年から2021年にかけての新型コロナウイルス感染症の感染拡大によって、多くの芸術祭が中止や延期を余儀なくされた。しかし、そんな時期にもかかわらず、新たな芸術祭を立ち上げたところもあった。2021年11月に初めて開催された「紀南アートウィーク2021」が、そのひとつである。

JR白浜駅

JR白浜駅

舞台は和歌山県南部の紀南地域。田辺市の高山寺、田辺駅前商店街、南方熊楠顕彰館、白浜町の南紀白浜空港、川久ミュージアム、アドベンチャーワールド、真珠ビル、および町内各所に現代アート作品が展示された。総合プロデューサーは、芸術祭を主催する紀南アートウィーク実行委委員会の実行委員長・藪本雄登。白浜町出身であり、アジアを中心に世界18ヶ国で法律事務所を展開する実業家であると同時に、世界各地に根付いた現代アートの研究・アーカイブ作成・展示、アーティスト等の発掘及び育成を行なうアウラ現代藝術振興財団の代表を務めている。アーティスティック・ディレクターは横浜美術大学学長、森美術館理事の宮津大輔だ。

紀南アートウィークの大きな特徴のひとつは、事業が民間主導で進められたこと。第一回目の開催となった今回は実行委員長である藪本の自己資金を中心に、協賛や寄付を集め、行政の予算や補助金に頼らずに開催された。予算の制限が大きいために、展示作品の多くは宮津がすでに持っているコレクションの中から、紀南の歴史や風土、各会場のストーリーに合ったものがセレクトされた。そしてそれは、日本を含むアジアの刺激的なアーティストによる映像を中心とした作品が観賞できるという、「紀南アートウィーク2021」のもうひとつの特徴につながったのだ。

美しい白良浜の夕景(白浜町)

美しい白良浜の夕景(白浜町)

この記事は、私が現地で体験した紀南アートウィーク2021について振り返るものだが、厳密な意味での「レビュー」とは呼べないかもしれない。時間的な制約などがあったために、複数ある会場の半分も回れなかったからだ。また、今回の芸術祭の重要なピースとも言える様々なイベントにも参加できなかった。結果的にかなり限定的な記事となるので、それを踏まえた上で読んでいただければ幸いだ。

私が訪れたのは、白浜エリアにある真珠ビル、川久ミュージアム、アドベンチャーワールドの3ヶ所。真珠ビルは、JR白浜駅の正面に立つ古いビルで、以前は観光客向けのレストランや土産物屋などが入っていたそうだが、もう何年も使われずに放置されていたようだ。白浜特産だった真珠を扱っていたことから、「真珠ビル」と名付けられたらしい。その建物が今回、展示会場兼インフォメーションセンターとして利用された。

会場1:真珠ビル

真珠ビル外観

真珠ビル外観

このビルの2Fには、その真珠を使った河野愛の作品『こともの foreign object』が展示されていた。「こともの」とは、「異物/異者」の古語。殻の中で異物である真珠を育てる貝と、胎児を育む女性とをシンクロさせることによって、「『乳児と真珠』の関係性や、人間の営みや記憶の循環を探る」ものであるとの解説が作品の横にあった。幼児の体も、宝石の真珠も、それぞれは日常的な事物。その両者を組み合わせて同一のフレームに収めることで、違和感のある非日常的なもののように見えてくる。一緒に飾られていたのは、かつて土産物の真珠の宣伝用に使われていたものなのか、年ごとに真珠が成長する様子を説明する模型。こうして作品は、展示された場所の記憶ともつながっていく。

河野愛《こともの foreign object》の展示風景

河野愛《こともの foreign object》の展示風景

同じ2Fに展示されていたのが、シンガポールの現代アーティスト、ミン・ウォンの映像作品『偽娘恥辱㊙部屋』。「偽娘」とは中国語で女性的な容姿を持つ男性を指すようだが、男性であるミン・ウォン自身が1970年代日本の成人向け映画(日活ロマンポルノ)のヒロインを演じる。かつての男性中心的な視点をずらすことで、多様な価値観を提起しようとしているようだ。新しいテクノロジーを駆使しながらもレトロな雰囲気を醸し出しており、古いビルの一室で観るという体験も含めて、70年代にタイムスリップしたかのような印象を持った。性的表現を含む作品であるため、18歳未満は鑑賞不可。18歳以上も入場に際しては同意が必要となり、私の場合は事前にWeb上でデジタルの入場チケット(無料)も入手した。それも作品の一部だと考えると、鑑賞者参加型のインタラクティブな作品と言えるのかもしれない。
芸術祭終了後、大規模なリフォーム工事が施され、来春には新しい姿に生まれ変わるという真珠ビル。その工事を先取りするように不要なものが取り払われたビルの1Fには、河野愛の『|』が展示されていた。実は彼女の祖父は白浜の老舗ホテル『ホテル古賀の井』の創業者であり、河野自身も幼少期より白浜で夏を過ごしていたという。『|』は、そのホテルの屋上でかつて輝いていたネオンを活かした作品。そうしたストーリーを事前に仕入れていたせいか、廃墟のようなビルの一室に佇むこの作品から私は、時間の経過の残酷さや朽ち果てた後もその場に残る微かな思いのようなものを見たような気がした。ちなみにこの『|』は複数あり、町内を移動中、真珠ビルにあったものと同じ形状の作品を桟橋で目にした。おそらく『|』は、設置場所ごとにそれぞれ別のストーリーを身に纏い、観る人の数だけ異なる感情を引き起こしたのではなかろうか。

河野愛《|》の展示風景

河野愛《|》の展示風景

増築を重ねることで複雑な形状と化した真珠ビルの1Fを奥に向かうと、かつてゲームセンターとして機能していたと思われる場所がある。その一角、射的コーナーのモニターに映し出されていたのが、小林健太の作品『無題(わたしはここにいた)』だ。どこか特定し難い場所の映像を、画像処理ソフトの指先ツールを使って描かれた派手な色彩が覆う。それはかなり昔のビデオゲームを思わせるものであり、ループする3分間の映像が永遠に続くかのようで目が離せなくなる、中毒性の高い作品だった。射的コーナーの横には古いビデオゲーム機2台が残されていたが、その画面の中で流されていれば、この作品がよりサイト・スペシフィックとなり、さらに面白く感じられたかもしれない。

小林健太《無題(わたしはここにいた)》の展示風景

小林健太《無題(わたしはここにいた)》の展示風景

 

会場2:川久ミュージアム

ホテル川久の外観

ホテル川久の外観

次に向かった会場は、川久ミュージアムだった。美術館としては2020年7月にオープンした新しい施設だが、このミュージアムのあるホテル川久は1989年の創業。ちょうど日本がバブルの絶頂期を迎えた頃で、日本および世界各地から一流のアーティストや職人たちが集結し、最高品質の素材を使って創り上げた西洋の城を思わせる建物は、優れた建築作品と設計者に与えられる村野藤吾賞を1993年に受賞している。バリー・フラナガンの巨大な彫刻『うさぎ』や北京の紫禁城で使われたものと同じ瑠璃瓦『老中黄』、シリアで発見された2世紀のビザンチンモザイク、フランスの人間国宝にあたる金箔職人ロベール・ゴアールが手がけた金箔天井などから成る建物そのものが、まさに壮大な一つの美術作品。さらにその中にあるミュージアムには横山大観や平山郁夫、ダリやシャガールら東西の巨匠の絵画や中国清時代の骨董の数々などが飾られていた。このホテルを見て私が思い浮かべたのは、「夏草や 強者どもが 夢の跡」という有名な芭蕉の句だ。バブル期には、採算を度外視したかのような巨額な資金を注ぎ込まれた豪華すぎるほどの建物が日本各地に生まれている。しかも、多くは外見だけを飾り立てたいわば偽物であり、早々と取り壊された。川久ホテルのような本物が当時のままに残されている例はごくわずかしかないだろう。貴重なコレクションを含め、わざわざ観に行く価値があると言える。

多くの美術品を身に纏ったかのようなホテル川久の内部

多くの美術品を身に纏ったかのようなホテル川久の内部

さて、川久ミュージアム内の「サラ・チェリベルティ」と名付けられたかつての洋宴会場には、イタリアの画家ジョルジオ・チェリベルティの天井画『愛と自由と平和』が描かれている。今回の芸術祭でこの巨大な空間で上映された作品は、シンガポールの現代アーティスト、ホー・ツーニェンの『ボヘミアン・ラプソディ・プロジェクト』。イギリスのロック・グループ、クイーンの名曲に乗せて展開されるオペラのような映像だが、そこにはかつて植民地であり、現在は多民族国家ゆえの問題も抱えるシンガポールという国の歴史を掘り起こすという意図が見え隠れする。とは言え、音楽あり、芝居ありとエンターテイメント性豊かなだけに、「現代アートはわかりにくい」という先入観をもつ人にとって、アート鑑賞の入口として適した作品となったのではないか。

ホー・ツーニェン《ボヘミアン・ラプソディ・プロジェクト》の展示風景

ホー・ツーニェン《ボヘミアン・ラプソディ・プロジェクト》の展示風景

ヘンリー・ムーアのドローイング『母と子』が展示されるドロミティルームに設置されたのは、磯村暖のサウンドインスタレーション『左の鼻の音 無題の鍵盤曲 右の鼻の音』。言語の不安定で限定的な役割から着想した作品であり、情報を伝える相手やその伝達方法、伝わるまでの時間における差異をコラージュした作品だという。その説明を読む限りでは難解に思えるが、実際にヘッドフォンから聞こえてきたのは、本来は口で表現する様々な音を、鼻を使って発生させたもの。前述の“差異”について真剣に考えることも可能だが、耳に入ってくる奇妙な“音”自体を楽しむという鑑賞方法があってもいいのではなかろうか。実行委員長の藪本は、公式サイトに掲載されたコラム「なぜ紀南アートウィークを実施するのか」(https://kinan-art.jp/info/113/)の中で、「私はアートの定義を『感動すれば、それはアート』だと理解しています」と述べている。私もその考えに賛成したい。たとえ作家本人の意図とは違っていたとしても、鑑賞者が作品から何かを感じ取ること(この作品の場合は、「聞こえてくる音は聞きなれないものだが、却ってそれが面白い」など)ができれば、その鑑賞者にとってのアート(現代アート)作品として認識できるはずだ。

建物2階にある回廊のような場所では、横山大観の肉筆画やダリのリトグラフなど、国内外の名画が来場者を迎えてくれる。その床に映し出されていたのが、台湾のウー・チャンロンの作品『Documentary IV-Little mince cloth』。自身の回りで起こる日々の出来事から、世界経済やエネルギー供給、エコロジー問題までを想起させる作品を制作している彼女のこの作品は、一見するとホテル内部の美しい透かし天井を連想させる。しかし、実は家業である養豚をモティーフに、生命の誕生から食肉化されるまでの記録を万華鏡のようにつなぎ合わせたものなのだ。作品には、家畜の在り方に潜む「国家の起源」や「統治のあり方」までを想起させようという作者の意図が潜んでいるようだが、私はただ単にその美しさに魅了され、教会や寺院を彷彿とさせる静謐なその空間にしばし佇んでいた。

この会場にあったもうひとつの作品は、アデ・ダルマワン(インドネシア)の『哲人のサッカー(試合)』だ。設置場所は、正確な名前はわからないが、スポーツバーのような空間。複数のモニターに浮かび上がるその映像は、まるでビデオゲームのサッカーのようだった。対戦チームはギリシアとドイツ。しかし、何か変だ。ピッチを駆け回るギリシア側のメンバーはソクラテスやアルキメデスなど、ドイツ側もマルクスやニーチェら哲学者が名を連ねている。作品解説を読むと「自然学や数学をも含む学究的営為の総体たる古代ギリシャ哲学と、ドイツ観念論からマルクス主義や実存主義へと連なる近代ドイツ哲学の関係性を、サッカー・ゲームに準え表現」した作品らしい。それを知らなくても、単にバーチャルなサッカーの試合を楽しむこともできるし、フィールドを駆け回るプレイヤーの中から自分が知っている名前を探し出すゲームに興じることもできる。これも『ボヘミアン・ラプソディ・プロジェクト』同様に、現代アートの入門編として適した作品だと感じた。この作品の元ネタはイギリスのコメディ・グループ “モンティ・パイソン”による同名のスケッチ・コメディーではなかろうか。もっともモンティ・パイソンの5人の面々は、試合終了前の1分間を除いては哲学的思想に没頭し、ボールに触ろうともしなかったのだが。さらに余談ではあるが、1982年のスペイン・ワールドカップに出場したブラジルのキャプテンの名前はソクラテス。ボールに触ろうとしないどころか、両足を自在に使う優れたゲームメーカーであった。

アデ・ダルマワン《哲人のサッカー(試合)》の展示風景

アデ・ダルマワン《哲人のサッカー(試合)》の展示風景

 

会場3:アドベンチャーワールド

アドベンチャーワールドの人気者、ジャシアントパンダ

アドベンチャーワールドの人気者、ジャイアントパンダ

最後に訪れた会場は、アドベンチャーワールド。これまで20頭を超えるジャイアント・パンダを飼育し、現在も日本で最も多い7頭のパンダほか、140種、1400頭の動物が暮らす動物園、水族館、遊園地が一体になったテーマパークであり、40年以上にわたって人間と動物のふれあいを通じた幸福や感動を生み出し続けてきた。現代アートとは全く接点のない施設のようにも思えるが、「感動すれば、それはアート」という考え方に立てば、白浜で最もアート的な場所と言えるかもしれない。ちなみに通常であれば、大人1名の入園料(1DAY)は4,800円だが、紀南アートウィーク2021の会期中は公式ガイドブックを持参すると、1時間限定で入園無料となった。この芸術祭が、いかに地元の協力によって成り立っていたかを物語るエピソードのひとつである。

アドベンチャーワールド内に設置された紀南アートウィークのフラッグ

アドベンチャーワールド内に設置された紀南アートウィークのフラッグ

ここに展示された作品は二つ。最初に観たのは、センタードーム・海獣館の1階に設置された大型モニターに流れる、長谷川愛の映像作品『私はイルカを産みたい…(I wanna deliver a dolphin…)』だった。長谷川の制作手法は、科学の方法や技術を使って人間と生物の関係を探求するバイオ・アートや、問題を解決するのではなくその根幹に潜む課題を提起するスペキュラティブ・デザイン。例えばこの作品は、地球上に70億人を超える人々が存在するという人口過剰の現状を鑑みて、これ以上人間を増やすのではなく、絶滅の危機にある種(例えばサメ、マグロ、イルカ等)を代理出産することを提案する映像となっている。そこで彼女は爆発的な人口増加の他、食糧問題や貴重な海洋生物の保護、生息環境保全に向けた解決の糸口を示唆しているのだ。作品のすぐそばには、イルカではないものの、同じ海に生きるホッキョクグマやペンギンの姿が。人類の活動が地球に大きな影響を及ぼしているという「人新世(アントロポセン)」という時代に、このような作品をアドベンチャーワールドという場所で鑑賞できたことは、大きな意味があるように私は感じた。なお、長谷川がアドベンチャーワールドの獣医師や飼育スタッフたちと対談した模様は、公式サイトのアーカイブ映像(https://kinan-art.jp/info/5205/)で見ることができる。

長谷川愛《私はイルカを産みたい…(I wanna deliver a dolphin…)》の展示風景

長谷川愛《私はイルカを産みたい…(I wanna deliver a dolphin…)》の展示風景

最後に紹介する作品は、ペンギンが泳ぐ水槽の横に設置された岸裕真の『utopia』。岸はAI(人工知能)を、人を模倣するものではなく、異次元のエイリアンの知性として捉えており、その知性を自らの身体にインストールすることによって、デジタルな知性とアナログな身体を並列関係に配置した制作を行なうアーティストである。AIが人類の知能を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)を迎えると、人間の生活に大きな変化が起こると言われる。クリスチャン・ラッセンが描いた楽園のような海の風景を思わせる画面が次々に変化していくこの作品は、シンギュラリティ以降の世界を人類と機械による平和的な共存共栄の到来であると捉えたものだろうか。題名の『utopia』からもそう考えるのが当然かもしれないが、それを反ユートピア(=dystopia)と見る者がいてもいい。AIの力を借りることで、今までとは全く異なる本質を現した見慣れた光景や図像。それをどのように見做すかは、鑑賞者それぞれに委ねられているのだから。マルセル・デュシャンが言うように、現代アートとは「作品を起点として鑑賞者が思考をめぐらし、そして鑑賞者の中で完成される」ものなのだ。

岸裕真《Utopia》の隣の水槽ではペンギンが悠々と泳いでいた

岸裕真《Utopia》の隣の水槽ではペンギンが悠々と泳いでいた

 

芸術祭をさらに盛り上げたさまざまなイベント

夜市(関守住職によるライブ) 11月19日/真珠ビル

夜市(関守住職によるライブ) 11月19日/真珠ビル

アートに興味がある人なら、作品が展示されているだけでやって来るかもしれない。しかし、アートに興味がない人にとって、それだけでは何のモティベーションにもならない可能性が高い。そこで多くの芸術祭で行なわれるのがイベントである。何らかの作品をつくるワークショップから、一見アートとは関係のなさそうなものまで、各地の芸術祭では関係者が知恵を絞って考えたさまざまな催しが実施される。紀南アートウィークでも多種多頭なイベントが行なわれた。私自身は参加できなかったが、主催者側から提供された題材をもとに、そのいくつかを紹介しよう。
「田辺市街地の新たなカルチャースポットで行われる秋の小さな文化祭」と称し、11日間の会期を通して開催された「博多通りミクソマイシー」。紀南アートウィークの展示会場の一つ南方熊楠顕彰館から徒歩1分の、かつて博多通りと呼ばれていた場所には、近年、個性豊かな店舗が続々とオープンし、様々なイベントが実施され、作家やクリエイターが集う有機的で文化的な土壌が育まれている。この通りを舞台にした「博多通りミクソマイシー」では、南方熊楠や彼が研究したキノコ・粘菌をテーマに、ワークショップや限定メニューなどを実施。このイベントに参加した「ギャラリー ユリイス」にはシイタケやエリンギをモティーフにした絵画が並んだほか、キノコがデザインされたハンドメイド雑貨や食品なども限定販売されたという。来場者は現代アート作品を鑑賞するだけでなく、「触って、作って、口にして」と、熊楠の見た世界を五感で楽しめる体験ができたようだ。

博多通りミクソマイシー(田辺市街地 博多通り近辺)

博多通りミクソマイシー(田辺市街地 博多通り近辺)

かつて銀行として使われていた白浜町のレトロな建物に、昨年オープンした小さな書店ivory books。11月18日から28日にちまでの11日間、ここで「紀南アート”ブック”ウィーク」が開催された。この書店に置かれている本と、大阪にある美術・デザイン専門古書店ON THE BOOKSのアート系の本とを本棚ごと交換しようというイベントで、両店の店主がセレクトしたアートにまつわる多種多様な本が白浜へ、あるいは大阪へと旅する企画だ。普段見ることのない本を手にすることで、これまで興味のなかったジャンルのアートや知らなかったアーティストの作品に本を通して触れることのできる格好の機会になったのではなかろうか。

紀南アート”ブック”ウィーク(白浜町ivory books)

紀南アート”ブック”ウィーク(白浜町ivory books)

展示会場のひとつである真珠ビルでもさまざまなイベントが開催された。会期前の11月15・16日には「紀南アートウィークの本部をみんなでつくろう」と題してボランティアを募り、2日間かけてビルの大掃除を行なったそうだが、間近に迫った開催に向けて地元の雰囲気を盛り上げていく効果もあったのではと推測できる。アーティストや関係者だけでなく、一般の人たちまでもが主体的に芸術祭に関わることで一体感が生まれたはずだ。また、会期中の金曜日、11月19日と26日に「夜市」と題した夜のイベントも開催。19日には白浜地域を代表するお寺である聖福寺の住職で、ミュージシャン/アーティストである関守研悟のライブにおおぜいの観客が集まった。26日は紀南地域出身の落語家・春風亭橋蔵の落語会とパーカッションニスト ガク&ケイタによる「リズムで遊ぼう!」を実施。観光地・白浜、そして紀南アートウィークの玄関口である白浜駅前は大いに賑わったそうだ。

夜市のために人々が集まった真珠ビル

夜市のために人々が集まった真珠ビル

 

日本の芸術祭と「紀南アートウィーク」のこれから
日本には一体どれほどの数の「芸術祭」があるのだろうか? 「瀬戸内国際芸術祭」や「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」「横浜トリエンナーレ」そして2019年の開催での一部展示の中止をめぐる騒動が記憶に新しい「あいちトリエンナーレ」(2022年は国際芸術祭「あいち2022」として開催予定)などは、誰もがすぐに思い浮かべられるものだろう。一方、国内の多くの地方でも様々な芸術祭が企画され、開かれてきた。先に挙げた「瀬戸内」のように大規模なものもあるが、大半は予算も集客数も少ない小規模なものだ。そしてそれら多くの芸術祭の背景には、芸術祭を開催することで地域を活性化しようという狙いがある。

「瀬戸内」や「越後妻有」の成功に刺激を受け、2010年代に一気に急増した地方の芸術祭。しかし、その全てが成功しているとは言い難い状況だ。成功例に学ぶことは良いが、地域の実情に合わせて打ち出すべきコンセプトが希薄で、内容は有名な芸術祭に似ているものの出展作家や作品がスケールダウンした「ミニ瀬戸内」や「ミニ越後妻有」では魅力に乏しい。おそらくコアな美術ファンや、過去にアートツーリズムを経験したことがある人たちの興味を惹きつけることは難しい。おそらく今後は、そうした芸術祭が淘汰されていくだろう。

紀南アートウィーク2021では田辺市、白浜町の複数箇所に会場が設置された。「知の巨人」南方熊楠が後半生を過ごした紀南地域の中心地、田辺市。アドベンチャーワールドや温泉で有名な白浜町。現代アートというより、むしろ観光のイメージが強い地域である。そんな場所で芸術祭を開催すると聞くと、アートの力を借りて観光客を誘致しようとしているのではないかと考えたくなる。しかし、現実は違う。観光客を誘致するために公的な資金支援を求めようとすれば、「どれだけ人を集め、どれほどの経済効果を上げたか」の裏付けが必要になるが、今回は来場者数をカウントすることさえしなかったという。人を呼び込むための大々的な宣伝も打たなかったらしい。ではなぜ主催者側は紀南アートウィーク2021を開催し、今後も継続しようと考えているのだろうか?

路線バスの中にもポスターが貼られていた

路線バスの中にもポスターが貼られていた

原点は、藪本がビジネスを展開するカンボジアで、現地の現代アーティストたちと交流する中で感じたことだ。カンボジアには現代アートのマーケットは皆無と言ってよいほど。彼らは“グローバル”なマーケットで勝負せざるを得ない。しかし、不思議なことに、作品のほとんどは、カンボジアの歴史や文化に根付いた、一見“ローカル”なもの。カンボジアの現代アーティストたちは、「ローカルのエッセンスを徹底的に抽出することに何よりも時間をかけています。その土地の風土、歴史、文化等を数百年、数千年レベルに渡って掘り起こし、その文脈を踏まえながら、その本質を抽出し、それをグローバルな世界でも劣化しない強度を持つ高付加価値商品として、全世界中に輸出して」いる(前述のコラム「なぜ紀南アートウィークを実施するのか」より)。そして、その手法が紀南地域でも通用するのではないかと藪本は考えたようだ。

紀南アートウィークは、それを検証するための一種の社会実験である。今回の芸術祭でその性格が最も強かったのは、和歌山県田辺市出身の前田耕平が手がけた『Breathing』だったようだ。展示場所は、空海が創建したとされる田辺市の古刹、高山寺。この寺の境内にある貝塚からは高山寺式土器など多くの考古資料が発掘されているが、前田はその土器に着想を得て、精霊から神々、仏の住まう山が有する祈りや時間、そして智慧の積層を可視化したような作品をつくった。残念ながら私自身は観ることが叶わなかったが、SNSなどにアップされた評価は高い。人や自然、事象との関係性について、自身の体験を手がかりに作品化されたこのコミッションワークは、まさにカンボジアの現代アート同様に、土地の歴史や文化を深掘りして本質を取り出し、かなりの強度を持つ高付加価値商品となったのだろう。

前田耕平《Breathing》 2021年

前田耕平《Breathing》 2021年

こうした高付加価値の輸出商品は、いわゆるアート作品だけではない。藪本はそう考えてもいる。「感動すれば、それはアート」という観点からは、他の産地にはない唯一無二の美味しさが感じられるみかんや、発祥の地で長い年月をかけて伝えられてきた醤油などの特産品もグローバルなマーケットで通用し得る輸出商品。芸術祭でありながら、会期中に限らず、一見アートとは無関係なイベントを継続して実施してきたのもそんな背景があるからだ。その一例が、紀南の歴史・文化・風俗を深く、多様な視点で見直し、再発見するためのトークセッション「紀南ケミストリーセッション」であり、地域の素晴らしい自然、文化遺産を踏まえながら、紀南の未来をどのように創造していくべきかを藪本と地元の人たちが語り合う「対談企画」(『みかんはアートか?』など刺激的なタイトルが付けられた対談企画などもある)などだ。なお、会期中にも前述したアドベンチャーワールドでの長谷川愛の特別対談のほか、藪本、シオゴリキャンプ実行委員長の福田聖、文化人類学の石倉敏明の3人が、海・火・祭り等の視点から人類学とアートの可能性について語り合う「人はなぜ海に集まるのか」などのトークセッションが実施された。そのアーカイブの多くが公式サイトで公開されているので、関心を抱かれた方はぜひアクセスしてほしい。

トークセッション『人はなぜ海に集まるのか』(11月20日/シオゴリキャンプ場)

トークセッション『人はなぜ海に集まるのか』(11月20日/シオゴリキャンプ場)

芸術祭を起点として、素晴らしい歴史文化を有する紀南地域の持続可能な経済の発展と教育の発展を目指すというのが、紀南アートウィークの中長期的目標だ。その活動を通じて歴史や文化、現代アートへの関心を高めて地域の経済的な発展にも寄与するとともに、人々の郷土に対する誇りを醸成し、紀南地域の未来の輸出の担い手を増やしていこうとしている。次の芸術祭の開催は2024年を予定されているが、単に3年に一度、トリエンナーレという形でイベントが開かれるだけではない。その間も紀南地域を盛り上げるための様々な企画が継続されていくという。ちなみに2022年は「みかんプロジェクト(仮)」と題した展示が、リアルとVRの双方で開催される予定。さまざまなトークセッションやワークショップも続いていく。

少子高齢化や経済の低迷など、日本の多くの地域が今、同じような問題に直面している。もちろん、それぞれの地域によってそのバックボーンは異なるが、薮本たちが紀南アートウィークを通して行なっている社会実験は、貴重なケーススタディとなる可能性を秘めていると言えるだろう。そういう意味からも、紀南アートウィークの今後に注目していきたい。

紀南アートウィーク案内板

■紀南アートウィーク2021 開催概要
・日程:2021年11月18日(木)~11月28日(日)11日間
・会場:和歌山県紀南地域(田辺市、白浜町)
田辺エリア/高山寺、田辺駅前商店街、南方熊楠顕彰館
白浜エリア/南紀白浜空港、川久ミュージアム、アドベンチャーワールド、真珠ビル、その他白浜町内各所
・入場料:入場無料(ただし川久ミューアジアムのみ入場料500円要)
・主催:紀南アートウィーク実行委員会
・総合プロデューサー:藪本雄登
・アーティスティック・ディレクター:宮津大輔
・共催:株式会社南紀白浜エアポート
・後援:和歌山県、田辺市、白浜町、田辺市教育委員会、白浜町教育委員会、田辺観光協会、一般社団法人南紀白浜観光協会
・URL:https://kinan-art.jp
※公式サイトでは現在も開催情報やアーティスト情報、アーカイブ動画などを閲覧可能

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